ワタルくんは夏の盛りでも、ずっと長袖を着ている。どんなに気温が高くとも、ずっとだ。端から見ているこちらが暑くなってしまうほど、その格好は一年中変わらなかった。けれど私がそれを指摘することは無い。だって布の下にある、彼の肌に刻まれた刺青の存在を知っているから。

「あ」

珍しく声をあげたワタルくんに驚いて、テーブルを拭いていた布巾を放り出す。慌ててキッチンに向かうと、着ている白いシャツを盛大に濡らした彼の姿が。蛇口を止めた格好の様子から、なんとなく状況を察した。
1Kの独り暮らし用賃貸に相応しい狭いキッチン故に、蛇口の水が暴走すれば被害を被るのは避けられない。案の定、ステンレス製の流しの中には、先ほど使ったワタルくん用のマグカップとカレースプーンが背を向けて置かれていた。

「大丈夫?」
「すまない。濡らした」
「よくあることだから、気にしないで」

洗い物をしていてキッチンを濡らすことなんでよくあることだ。これぐらい拭けばすむことだし。それよりもこの前の夕飯のとき、ミートソースのレトルトパックをひっくり返した時の方が大変だった。ご飯も食べずに一人掃除する夜は、なかなかに心に効いた。主に惨めさと空しさで。なんて、私の悲しい思い出は置いておこう。それよりもワタルくんのほうが気にかかる。

「どのくらい濡れた?」
「……そうでもないさ」
「変なところで強がらないでよ。わ、びっしょりじゃない」

キッチンを濡らした、と言われたけれど、被害のほとんどはどうやら彼が受けてくれたらしい。現にお腹からその下あたりまでぐっしょりと濡らしていた。キッチンはそうでもないけれど、ワタルくんの被害は尋常じゃない様子。「やっちゃったね」と棚から取り出したタオルを渡そうとして、ようやく気づく。服の下から、彼の肌が透けていることに。

いつも黒い服ばかりを着ていたワタルくんなのに、今日は珍しく白いシャツを選んでいた。なのに「昼食はカレーがいい」なんて言うものだから、笑ってしまったのはついさっき。「よりよってそのメニュー? 汚さないでよ?」とからかったりしたのに。些細な、日常の一コマ程度のことだからすっかり忘れてしまっていた。
どきり、と胸が鳴る。ただ単に肌が見えるなら、まだいい。照れる間柄では今更無いのだから。けれどただ気にかかることが一つある。彼の肌には一族≠フ刺青が彫られているのだ。誰にも見せてはいけない一族の歴史。けれど私はひょんなことから見てしまった、曰わくつきの刺青。そちらの事実に心が騒ぐ。

うっすら。そう、ほんのうっすらだけれど、彼の刺青が見えている。白いシャツが張り付き、お腹の部分に彫られた刺青の存在が瞳の中に入った。どくり、どくりと次第に自分でもわかるほどに、鼓動が大きくなっていく。私の見たことの無い――腕の部分とは違う――刺青を見てしまった。

目が、離せない。意識が遠くなっていく。

「こら」

急に視界が暗くなった。なにが起ったのかわからなくて、声の代わりに浅い息がもれる。
しかし、その暗闇のおかげか徐々に急いていた心が落ち着きはじめ、状況が飲み込めた。ワタルくんだ。ワタルくんの手の平が、私の目を覆っている。ふれている彼の体温に驚き、思わず蹈鞴を踏む。私とは違って彼には余裕があるようだった。よろける私をもう片方の手で簡単に支える。

「あまり見るものじゃない」
「……前は見せてきたのに」
「はは、それを突かれると痛いな」

言葉通り、苦さを含んだ笑い声が響く。ワタルくんは私からタオルだけを受け取って、目を瞑るよう促した。私が頷いたのを確認したようで、そっと手のひらが離れていく。あたたかさが、少し、名残惜しい。

「ドライヤーは洗面所だな?」
「うん」
「借りるぞ」

あいにくとうちには乾燥機も無ければ、ワタルくんサイズの着替えも無い。ドライヤーとタオルで地道に服を乾かすしか方法は無いだろう。そのことを彼も私もよく知っていた。
パタンとドアが閉まる音がしてから、私は目を開けた。すぐに洗面所からはドライヤーの鈍い音が響き始める。

「び、っくりしたぁ……」

詰めていた息を吐き出し、滲んでいた汗を拭う。まさかワタルくんの刺青をまた見てしまうなんて。いや、あれは未遂かも? でもうっすらではあるが視認したことには違いなくて。
ドキドキと心臓がまた強く動き出す。子供のころに何も知らないで見るのとは違って、全てを理解したあとに改めて目にしてしまった。否応がなしにあの刺青の意味を考えてしまう。
忘れよう。思い出さないようにしよう。頭を振って、気持ちを切り替える。
残された洗い物のために、私は気をつけて水を出した。



ガチャリと洗面所のドアが開いてワタルくんが出てくる。そのシャツはもう透けていなくて、キッチンで待っていた私はほっと胸を撫でおろす。

「乾いた?」
「ああ。すまなかったな。……いろいろと」

彼はちらりと横目で空になった流しを見る。「別にいいのに」と答えた。ワタルくんが今回の洗い物担当だったから、中途半端に放り出してしまったことが気になったんだろう。それよりも対処しなければいけないことが出来てしまったんだから、そちらを優先したことは仕方ないのに。責任感の強いワタルくんらしい。私は、彼のそういうところが好きだ。

「何か飲む? 暑くなっちゃったでしょ?」

洗面台でずっとドライヤーを使っていたのなら、だいぶ熱が籠もっているに違いない。けれどワタルくんは案外涼しい顔をしながら「暑さには慣れているからな」と答える。けれど飲み物は欲しいようで、私の問いに頷いた。
わざわざグラスを出すのは面倒くさいので、まだ食器籠の中にあったワタルくん用のマグカップに麦茶を注ぐ。
差し出せば、お礼と共に受け取られた。ごくりと音を鳴らし、彼は一気に麦茶を飲み干す。喉の動きが妙になまめかしく感じて、つい目を逸らしてしまう。
あのドキドキはあくまで刺青を見たことに対してだったはずなのに。ワタルくんにドキドキしたわけじゃなかったはず。これが吊り橋効果というやつだろうか。
そしてワタルくんは気まずい時の私に、目敏い。

「どうかしたか?」
「あー、その、着替えも置いておいたほうがいいかなって考えていて」

誤魔化すための一言だったけれど、実は待っている間考えていたことでもあった。
今回のようなことが起きたとき、着替えがあったほうがいいのかもと思ったのだ。毎回ドライヤーで乾かすのは手間だ。そうでなくても、何かの折に使える機会は多いはず。別に濡れた専用の着替えではないわけだし。
私の提案にワタルくんは考える素振りを見せ「念のために訊くが」と口を開いた。

「おれの着替え、ってことだよな?」
「それ以外に何があるの?」
「ああ、うん。そうだよな」

きみが変なところで思い切りがいいのを忘れていたよ。
そう呟いた途端、ワタルくんは耐えきれぬように肩を震わせ始める。なぜそうなったのかわからなくて、はてなマークを飛ばしていると、途切れ途切れの声で彼は言う。

「気づいているか?」
「なにが」
「おれの私物が、きみの家に増えていることに」

例えばこのマグカップ。箸も、茶碗も、なんなら味噌汁椀だって。おれ専用のものを揃えてくれているだろう?

「加えて着替えだなんて。これでまだおれのことが好きであることを認めないなんて、信じられないよ」
「い、イブキちゃんのもあるし!」
「着替えも?」
「き、着替えは……ないけれど……」
「なら、そこは一番乗りさせてもらおうか」

ワタルくんは「なんなら歯ブラシやヘアワックスも置いていい?」なんて調子乗り出すものだから、私は思わず「知らない!」と叫ぶ羽目になった。むくれる私を見て、ワタルくんはさらに愉しそうに笑みを深めていく。

「きみ、本当におれのことが好きだよな」
「だから知らないってば!」


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