仕事にも順調に慣れ、私は忙しくも充実した毎日を過ごしていた。元々生まれた土地であるこちらのほうが水にあっていたのだろう。カロスよりも、のびのび過ごしている自覚がある。きっとそれは自分の体質を隠すこと必要もない、というのも大きいのかもしれない。その上、私に怯えないポケモンもいる。幼なじみ二人の手持ちたちは、むしろ懐いてくれるほどだ。「懐くというより、仲間だと思っていそうね」と笑うのはイブキちゃんだ。
カスミさんをはじめとした、ハナダジムのみなさんもこの体質を受け入れ、いやな顔をせずフォローをしてくれている。遊びに誘っていただくときも、私の体質に関係なくいろいろな
場所に行っていた。そこにはポケモンがいたり、いなかったり。私を普通に扱ってもらっているのが、心地いい。
「カロスでも甘えてよかったのかも……」
向こうでも友人はいたし、今だって連絡を取っている。でもこの体質のことを話してはいない。嫌な思いをさせてしまうから、と言い訳をして、本当は変な気を遣われたくなかった。そんなことをするような友人たちでは無いのに。
物思いにふけっていると、内線電話が鳴った。瞬時にそれを取って、受話器を耳へ当てる。
「はい、バックオフィスです」
『ミズナだけれど、今大丈夫?』
「大丈夫です。どうかしましたか?」
ミズナさんは苦笑ののち、要件を伝えてくる。どうやらリーグ本部から届いたジムの荷物が表玄関に置かれてしまったらしい。いつもは裏の関係者口へ宅配業者さんが来てくれるというのに。
『申し訳ないんだけど取りに来てくれる? チャレンジャーが来ちゃってこっちが届けに行かれないの……重いものじゃないはずだから』
「もちろんです。今から向かいますね」
失礼します、と電話を切って立ち上がる。一緒に業務をしていたスタッフに声をかけ、バトルフィールドへ向かった。繋がるドアのセキュリティーキーに数字を打ち込んで、静かにドアを開ける。このドアはカスミさんのバトルエリアの近くにある。バトルの真っ最中だったら邪魔になってしまうかもしれない。こんな些細なことで彼女の集中力が切れるとは思えないけれど、念のため細心の注意を払う。
顔だけ出して窺うと、チャレンジャーはまだカスミさんの元へたどり着いていないらしい。プールサイドを使って向かってくる様子も無いから、遠回りをして表へ行けばいいだろうか。
悪い事をしているわけではないのだけれど、なんとなく足音を押さえて歩いてしまう。バトルフィールドのプールでは水飛沫が輝いていた。こうして間近でポケモンバトルを見ることは少ない。つい、わくわくとした気持ちがわいてしまう。
「っと、お仕事お仕事」
表玄関に着くとリーグから派遣されているアドバイザーが手をあげた。彼の元へ向かえば「受け取っておいた」と小さな段ボールを渡される。商品名を確認すると、確かに今日届くとメールで連絡がきたもので間違いない。
「ありがとうございます。確かに受け取りました」
彼に頭を下げ、もと来た道を戻る。横目で確認すると、未だにチャレンジャーはバトルを続けているらしく、今はナミさんとバトルをしているようだ。もしかしたらカスミさんのところにたどり着くかも。そんな考え事をしていたからいけなかったのかもしれない。
「避けて!」
「え」
ミズナさんの声が聞こえた。だから振り返った。私に向けての言葉だとわかっていたから。
眼前には、水。ざぶんと、身体が飲み込まれた。
「……なるほど、それできみはそんな格好をしている、というわけか」
苦々しい声と視線を向けられ、私はくちびるを尖らせながら、そっぽを向いた。そんな子供のような様子を見てワタルくんは重いため息をこぼす。
「仕方ないことだもん」
「わかっているよ」
でもこれはちゃんと着て、と彼は身を乗り出して、私が着ているラッシュガードのファスナーを首まであげた。しかし、すぐさまそれを下ろす。単純に苦しいのである。私の行動を見て、ワタルくんはまた重いため息を吐いた。
チャレンジャーが放ったなみのり≠フ水に襲われた私は、当たり前のように全身ずぶぬれになった。唯一幸運なことは、段ボールの中まで浸水しなかったことだろう。
何が起きたかわからないで途方に暮れていた私を引っ張ってバックオフィスへ戻したカスミさんに、併設されていたシャワールームへ放り込まれる。ランドリーを回し、水がしたたる衣服の処理も気づいたらすんでいた。いまごろ、私が着ていた服と下着は乾燥モードで乾かされているだろう。おかげで風邪を引く心配をしないですんだ。
しかし困ったことが一つ。そう、着替えがない。バトルフィールドに出るならまだしも、バックオフィスの私が濡れることはない。今回は特殊中の特殊。当たり前だが替えのものは用意していなかった。
仕方なく、私はジムに用意してあった予備の
着替えた当初は恥ずかしくてたまらなかったが、ここはハナダジム。トレーナーたちは水着だから私だけが浮くこともない。加えて一緒に事務仕事をするバックオフィスのスタッフは時間短縮勤務の方なので、ほとんど入れ違いで帰っていった。そのため、今ここにいるのは一人。帰る頃には服も乾く。つまり、この姿を誰かに見られることもほぼ無いだろう。
――と思っていたのに。
「なんでこのタイミングでワタルくんは来るかなぁ」
まさかのまさか。ワタルくんに見られてしまったのだ。
「言っただろ? 用事があって近くに寄ったから、きみの様子を見に来たって」
「子供じゃないんだから、授業参観みたいなことをしないでよ」
「推薦した手前、就業態度を確認しにくるのは当然だ」
反論したくなったが腑に落ちるのも確かなので、言葉を飲み込んだ。ワタルくんは「そこまで心配していなかったけど」とようやく表情をやわらげた。
「しかし、違う意味で心配になったな」
「だから、これはたまたまなんだって」
「わかっている。冗談」
ワタルくんはくすくすと笑い、言う。
「このタイミングで言うのもおかしいかもしれないが、似合っているよ。かわいい」
「えっ」
上ずった声が口から漏れた。似合っている、というのはこの姿のことだろう。ジムトレーナーのみなさんと比べれば全然スタイルは良くないので見ないでほしいのだけれど、それはそれとして嬉しくなってしまう自分もいる。ワタルくんに褒められた、というのが特に。
「だから、ちゃんと着てくれ」
またファスナーをあげようとする彼を腕で阻止する。首元が苦しくなると訴えるが、素知らぬ顔。しかしここで私も退くわけにいかない。攻防戦を繰り広げ、先に折れたのはワタルくんだった。
「じゃあせめて、着替えるまでこれを」
そう言って彼はマントの留め具に手をかける。それが何を意味しているか気づかないほど、鈍くは無い。
「だ、だめだよ。それ、ワタルくんの大事なものじゃない」
「リーグに戻れば予備もある」
でも、と言いかけた私を視線一つで黙らせたワタルくんは、有無を言わさず、先ほどまで自分の身を包んでいたマン
トを私の肩にかけ、身体を隠すように纏わせてくる。
「おれのわがまま、きいてくれるよな」
息をのんだ。彼の瞳孔が細くなり、鋭く冷たくなる。かつての記憶が蘇った。心臓をわしづかみにされた感覚が襲ってくる。気づけば受け入れるように、頷いていた。
ワタルくんは私の肯首に満足そうに目を細める。その表情を見ると、今更脱ぐなんてことはできなくなってしまい、大人しく従うことにした。当たり前ように私にとって大きなそれは、簡単に身を隠すことができる。不意に漂うワタルくんの香りを感じ全身が赤くなるようだった。
それを見て、またワタルくんは愉しそうに笑う。その笑みで胸の奥からなんとも言えない気持ちがわきあがり――この空気を変えるように私は尋ねた。
「そっ、そういえば、もう痛くはないの?」
あの瞳を見たから、思い出してしまった。かつての夜にわかちあった秘密≠フことを。
ワタルくんは一瞬だけ、目を瞬かせるとすぐに何を示しているか理解したのだろう。目を伏せ、そっと左腕を擦った。
「忘れていなかったんだな」
「もちろん。ずっと覚えていたよ。ワタルくんと約束したことだもの」
「……そうか。そうだよな。きみは、そういう子だ」
彼は言う。もう痛みはない、と。蘇ることもないらしい。
「きみの手当て≠ェ恋しいときもあったけれど、もう感じなくなったから大丈夫」
痛みだけではない。暑さも寒さも。もう何も感じない。
「おれが感じるのは、我が身に流れる血の歴史だけだ」
その声の冷たさといったら。再び細くなる瞳孔と、その奥に見える暗い焔に息がつまる。
じりりと胸の奥とうなじが痛み、背筋に寒気が走る。結局、彼が帰るまで、その凍るような寒さが消えることはついぞなかった。彼のマントを身に纏っているというのに、だ。