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「お姉ちゃんには好きな人、いるですー?」

唐突に喰らった一撃。カイリューをマッサージしていた手が固まる。変な格好で動きを止めたから、骨が嫌な音を立てた。
 
天気も良くて穏やかな昼下がり。このままお昼寝をしたらきっと気持ちいいだろう。
ぽかぽかと暖かな陽気は眠りを誘うように降り注ぐ。そんなやわらかな気温にはドラゴンポケモンもお手上げらしい。寝転んだカイリューたちは大きな口であくびをしている。そんな彼らの身体を、座り込みながら丁寧に撫でていた私へ投げられた一つの質問。まさか温まった背中が一瞬にして冷えることになるなんて。
 
私を見つめる双子の姉妹――ハナちゃんとヒナちゃんは無垢な瞳を向けてくる。返答を待つ彼女たちへ言葉が詰まった。どうしてこんなことを訊いてくるのだろう。さっきまで「昨日食べたクッキーが美味しかった」とか「ミニリュウのたまごが孵った」なんて、他愛もない話をしていたのに。恋愛の話だなんて、急カーブすぎる。
 
しかし、彼女たちは子供とはいえ、長老さまにも認められる実力を持っている。年齢よりも精神は成熟しているに違いない。そういう話を気になる年頃……かも、なんて。

「お姉ちゃん?」
 
ハナちゃんが首を傾げ、黙り込んだ私の顔を覗き込んでくる。心配そうなその表情に、慌てて取り繕う。「びっくりしちゃいました」と笑って誤魔化した。
――さて、なんて答えようかな。この場を濁してくれるような、第三者の介入は望めない。なにしろ今日は週に一度の修行が休みの日。厳しい修行の疲れを取ったり、個人の用事をすませたり……やりたいことも、やらなくてはいけないことも山積みだ。

そんな日に屋敷の外れにあるカイリューたちの住処を通りかかる人は少ない。いや、いないだろう。一族が特別に手をかけて、世話をするカイリューたちであるから余計に。必要以上に関わるのは恐いのだ。とはいえ門下生たちが最初に行なう修行が、このカイリューたちの世話であるから全く関わらないわけにはいかないのだけれど。でも私はそこまで彼らの世話をすることに抵抗はない。カイリューを通して、ドラゴンポケモンの生態を学べるし、相棒はマッサージがあまり好きじゃないから、お世話のしがいがないのだ。だから今もわざわざ許可までもらって、プライベートでしている。そんな私を、時間を持て余していた二人が通りかかり、こうしておしゃべりとお手伝いに付き合ってもらっていた。

悩んだところで、解決策は浮かんでこない。相棒がいればまた話は別だったのに。あの子は昨日の疲れが残っているようでまだ部屋で寝ている。やはりここは一人で乗り切るしかなさそうだ。
適当に返そうかとも思った。でも、それがバレたときには、今度はもっと逃げられない質問を投げられてしまう。子供というのは大人にはない特有の聡さがあるし、この子たちはさらに慧眼だ。すぐに僅かな嘘を感じ取る。かと言って、本当のことを言うわけにもいかなかった。

――私にはまさしく好きな人≠ェいる。

「……もしかしてお二人とも、気になる人でもできました?」
 
だから、私に話を聞きたいんですか? と話題をさりげなく逸らすように問い返す。彼女たちには申し訳なさもあるがこれも戦法の一つ。決して卑怯な手ではない。あからさまにはぐらかすよりは、効果的だろう。
さらにダメ押しとばかりに「誰にも言わないから教えてください」と秘密を共有するかのように声を潜めれば、二人は上手く釣られてくれた。いつだって内緒話は魅惑的に感じるもの。彼女たち「うーん」と唸ったあと、否定の言葉とともに首を横へ振った。

「ではどうして急にそんなことを?」
 
さらに問いを重ねる。彼女たちは顔を見合わせ、「どうするー?」と相談を始めた。しばらくそれは続いて、ようやく納得のいく結論が出たようだ。おずおずと声を揃えて言う。

「あのね、ワタルおにい……」
「ハナ、ヒナ」
 
遮るように第三者の声が割り込んでくる。二人は最後まで口を動かしていたというのに、その声のせいで聞き取ることはできなかった。肝心の答えは、葬られる。しかし、そんなことは些細なこと。声の持ち主が誰かすぐにわかったからだ。私は慌てて立ち上がり、姿勢を正してその人へ向き直る。彼が纏う、暗い色のマントが風に靡いた。

「ワタルさま!」
 
フスベ一族の長子、次期当主、セキエイチャンピオン――ワタルさまが背負う肩書きは山ほどあって、どれも彼にふさわしい。そんな人が至近距離にいて、緊張しないわけがない。一族のみなさまと対面するときはいつもそうだけれど、この人はさらに特別だ。

「楽にしてくれ」
 
表情を強ばらせた私への気遣いを向けながら、ワタルさまはハナちゃんとヒナちゃんの目線までしゃがみこみ「お父さんが探していたぞ」と声をかけた。

「それと……」
 
私には聞こえない音量でワタルさまは二人の耳へ囁いた。私が知ってはいけない、何か秘密事だろうか。何も聞いてはいませんよ、とアピールするようにその光景から目を逸らす。彼らが二つ三つと会話を交すと「はぁい」と可愛らしい返事が響く。彼女たちは私へ最後まで手伝えなかったことを詫びて、駆けていく。手を振りながら遠くなる姿を、同じく手を振り返して見送った。

「今日は修行が休みだろう」

ひらひらと脳天気に手を振っていた私は、その一言にびくりと肩を震わせる。驚いたのと、ワタルさまが私へ話しかけるとは思ってもみなかったのだ。すると彼は「そんな驚かなくても」と苦笑をこぼす。

「なにも取って喰いやしないさ。――今は」
「……? はい。ワタルさまの稽古は明日なのは存じております」
 
この人がつける稽古、もとい修行が人一倍厳しいことは身に染みている。そう思って返した答えのだが、どうやらそれは誤りだったらしい。

「ああ、うん。そうだな……」
 
ワタルさまは眉を顰め、一際重く息を吐いた。その様子はなんだか苛立ちを纏っているようにも見える。いつもお忙しいワタルさまが、こうして稽古の前日にお屋敷へ来るのはごく稀だ。もしかしたら、何かあったのかも。そのせいで気持ちが荒れていて、お疲れになっている可能性がある。しかし、それを尋ねたところで、私に何かできることも無い。

無力さを痛感した私が落ち込んだことをすぐに察したワタルさまは、空気を変えるかのように「このあと稽古をつけてあげようか。特別に」と誘う。その気遣いに申し訳なさを感じたが、それよりも喜びがこみあげてきた。

「よろしいんですか!?」
「ああ、別件で近くに寄ったから早めに着いただけなんだ。だから、時間もある」
「ありがとうございます!」
 
ワタルさまに特別稽古を――しかも個人的に――つけてもらえるなんて、滅多に無いチャンスだ。相棒もこれを伝えれば飛び起きるはず。興奮で心が満ちていく。そんな、今にも飛び跳ねそうになる私の身体を、押さえつけるように背後から体重かかった。
振り返れば不満そうな表情を浮かべたカイリューがのしかかってきている。手加減をしてくれているとはいえ、その巨体と重さは私に耐えられるものではない。つい、足がよろめいた。転ぶ、と思った瞬間に受け止められる身体。

「おっと……大丈夫か?」
「も、申し訳ありません!」
 
この状況で私を支えられるのは一人しかいない。ワタルさまだ。背後にはカイリュー、目の前にはワタルさま。よりによってなんという挟まれ方をしているのだろうか。
体勢を整えようにも、カイリューの体重が邪魔をする。でも早く立たないと。ワタルさまに迷惑をこれ以上かけられない。そんな、慌てふためく私とは違って、ワタルさまは冷静だった。「離れるんだ」と的確にカイリューへ伝える。体重が渋々と遠のいたのを感じ、すぐさまワタルさまの腕を離れ、距離を取った。

「大変失礼いたしました!」
 
腰を深々と折って頭を下げるが、返ってきたのは「気にしなくていい」という優しい声。

「カイリューからきみを奪ったのはおれだからな」
 
そうだ! と言わんばかりにカイリューが鳴く、確かにこの子のマッサージは途中だったことを思い出す。途中で放っておかれたら、そりゃあいい気分にはならないだろう。いけないのはやっぱり私だ。カイリューへ心から詫びれば、そんなのはいいから続きを、と催促されるように腕を引かれる。
 
カイリューへマッサージの続きをしてあげたいのは山々だが、ワタルさまを待たせるわけにはいかない。どちらを選べばいいのか迷う私を導くように、彼は言う。

「してやってくれ。きみはポケモンの扱いがうまいから、こいつもマッサージを気に入っているんだ。おれの前でも強請るぐらいにね」
「……恐縮です」
 
私がマッサージの続きを優先することに決めたのを察したのか、カイリューはすぐさま寝転んだ。ぱたぱたと尻尾と羽を揺らし、私を招く。愛らしい姿に、つい笑みがこぼれた。バトルではあんなに勇ましいのに、こういう愛らしいところがあるからこの子たちはかわいい。
しゃがみこみ、夕陽色の身体へゆっくりと触れる。カイリューは全身を使ってバトルするから、疲労も貯まりやすい。ほぐし漏れがないように念入りに撫でて、揉んでいく。手順も体勢も、先ほどと全く同じ。しかし格段にやりにくい。
 
なぜならワタルさまがじっとこちらを見ているからだ。同じように地べたに座り、あぐらをかいている。彼の視線は私の手へ―もとい手つきへ注がれている。痛いほど凝視されていることを、ついに無視できなくなった。

「あの、ワタルさま……」
 
おずおずと名を呼べば、彼は私が言わんとしていることに気づいたのだろう。苦笑を浮かべ、謝った。

「すまない。器用なものだな、と感心して、思わず。ほら、カイリューへのマッサージは重労働で、やりたがるトレーナーはあまりいないから」
 
気難しいこいつらが身を預けるぐらいだ。ここまで極めるのは苦労しただろう? と尋ねてきたワタルさまへ「そんなことはないです」と首を振る。

「私はここにいる時間が長いですから。この子たちの癖や好みを把握しているだけですよ」
 
言葉の通り、私はフスベで修行して長い。
しかも、なかなか芽が出ないせいで、ずっとここにいる。次のステップへなかなか進めないでいるのだ。だから観察する時間が、たっぷりとあるだけ。『極めた』なんてこと、口が裂けても言うことができない。ワタルさまは力なく笑う私へ「……話題を変えよう」と目を伏せた。気を使わせてしまったことに罪悪感がわきあがる。しかし、彼はそれを求めていないだろうから必死に飲み込んだ。

「そういえばあの子たちと随分興味深い話をしていたな」
「興味深い……?」
 
はて、そんな話をしていただろうか。
ワタルさまは口元だけに笑みを作り、言った。

「好きな人がどうとか。恋の話をしていたんだろう?」
 
思わず変な声が喉から飛び出る。それは会話を聞かれていたことに対する反応ではない。
ワタルさまの口から「恋」という単語が出たことに驚いたのだ。その単語を知っていたんだ、なんてとびきり失礼なことが頭を過ぎり、思わず数分ぶりの謝罪を繰り返す。さすがに私の急な謝罪は意図不明な行動に映ったようだ。彼は元より低い声を、さらに低くする。

「どうして謝るんだ」
「ええと……、そんな話をしていたことについてでしょうか」
 
さすがに胸中をストレートに言うわけにもいかない。でも嘘では無い。そう言った意味で謝罪も、私の中にはちゃんとあったからだ。修行に来ている人間が愛だの恋だのの話をしている姿は指導者としてもあまり気持ちのいい光景ではないはず。しかしワタルさまはやれやれと首を振り「気持ちはわかるけどね」と言う。

「修行時間にそんな会話をしていたら、おれだって怒るよ。しかし、今日は休日で、きみたちにとってはプライベートを優先する時間だ。そもそも、きみは双子に話を振られた立場じゃないか」
 
それに誤解している、と首を振る。

「別にウチは『恋愛禁止』というわけじゃない」
 
聞こえた言葉に目が丸くなる。それは初耳だ。
でも改めて考えれば、わざわざ「恋愛はしていいですか?」なんて確認をするわけがない。私だってそうだ。ここへは夢を叶えるための努力をしに来ているのだから。恋愛を求めているほうがおかしい。
――結果的に、私には好きな人ができてしまったけれど。
しかし、私はあまりに呆けた顔をしていたのだろう。ワタルさまは軽く笑って「意外かい?」と訊いてきた。

「……正直なところ、意外です。私たちはここへ修行を目的として訪れたわけですし、必然的にそういうことは避けるべきであると思っていました」
「まあ、普通の修行ならそうだろう。―だが、おれたちは心を通わすのはポケモンだ。彼らは生きている」
「あっ……!」
「聡いきみならこの言葉の意味がわかるな?」
 
人の心は縛るものではない、と彼は言う。
ポケモンはトレーナーの気持ちに応えて強くなる子が多い。誰しも身に覚えがある、この世界の常識だ。人間とポケモンはお互いに助け合い、補って生きているのだから。

バトルに関して言えば重要なのは知識と経験、判断。そしてなにより、ポケモンとの信頼。心だけで強くなるわけではないが、最後の一手として大きく影響があるのも確か。お互いが思いやることで、ポケモンもトレーナーももっとずっと強くなる。

「修行が疎かになってしまうのは確かに問題だが、その恋がプラスに働くなら大いに歓迎だ。己を奮い立たせる感情は、そう簡単に手に入るものじゃない」
 
強い想いは心も人も強くする。誰かを大切に想う気持ちは聖なるドラゴンポケモンが顕著に読み取る心でもある、と彼は続けた。

「ただ、何事もほどほどに。恋も修行も。きみには前科があるから、修行に関しては不要な忠告となっているだろうが」
「うぐ……その節は申し訳ありません」
「反省しているなら構わない」
 
ふいに、ワタルさまの纏う空気が変わった。指導者でも、一族の長子でもない――私の知らないワタルさま≠ェそこにいる。私へ向けられた、瞳を見て背筋に何かが駆けた。

「それで、きみに好きな人はいる?」
「……申し訳ありません、よく聞き取れず」
「きみに好きな人はいる?」
 
ワタルさまは表情を緩めながら「もう一度、聞くか?」と首を傾げた。

「必要なら、何度でも言おう」
「……からかうのはよしてください」
「揶揄っていると思われるなんて、心外だなぁ」
 
宿した笑みを声に乗せ、肩を震わせる。伏せた睫が揺れた。
次の瞬間、目を開けたワタルさまは先程とは打って変わって静かな熱を瞳に灯らせていた。深い光に呼吸が奪われる。彼の瞳孔が細くなり、私を刺した。どきりと心臓が鳴る。背中を駆けていた焦燥が、冷や汗へと変わる。

「きみのことを好いた男がいる」
 
ワタルさまの低い声に有無を言わさぬ圧力が乗る。身動ぎさえ許されない。そんな迫力があった。

「そいつはフスベの生まれで、自他ともに認めるドラゴンのような男でね。それもあって、ここでの将来が決まっている。でもきみは外の人間だろう? 故郷に残してきたい人がいたら、と男は考えてしまったようで」
「い、許婚なんてそんな。ワタルさまじゃないんですから」
「ははは、おれにだって許婚はいないよ。幸運なことにね・・・・・・・。――でもそうか、よかった」

宣戦布告する必要は無さそうだ。
彼が何かを言ったようだったが口の中へ隠されてしまい、うまく聞こえなかった。恐る恐る名を呼ぶと「きみが気にする必要はない。まだ、ね」とだけ、返ってくる。その言葉が少し怖く、私は感じてしまった。なんとなく踏み込んではいけない予感がする。一歩間違えれば、私は頭から丸呑みされてしまうかもしれない。
 
ふいにワタルさまは立ち上がり、私へ手を差し出す。とっくにマッサージは終わっただろう? と言うかのように。
その手を取るか悩んでいると、勝手に引っ張り上げられた。近くなった視線と視線が交わる。なぜか逸らすことができない。ワタルさまの纏う雰囲気が、穏やかなものへと瞬きの合間に変わる。いつものワタルさま≠ェ戻ってきたのだとわかった。安堵が広がり、張り詰めていた緊張も解ける。彼は申し訳なさそうに眉を下げ、言った。

「プライベートなことを聞いてすまなかった。でも、最後にひとつだけ。いいか?」
「か、構いませんが」
「きみは恋をしているのか?」
 
無理して答える必要はない。きみの感情だから、とワタルさまは私のための逃げ道を用意しながら訊く。でも答えを待っているとも、言外に訴えていた。正直なところ、その問いに答えるのはなんら構わない。ただ準備をさせてほしいだけ。私は隠れるように細く息を吸って吐く。凪いだ感情を作り出す。何もブレない、動じない心を。

そして、にこりと百点満点な笑みを作り――

「恋なんて、したことがありません」
 
好きな人≠ヨ嘘をついたのだった。 
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