これの続き
※ワタルさんに特殊設定有り


パソコンの前。固まった身体をほぐすように私は息を吐いた。じっと画面を見つめながら文字を打っていたせいか、ひどく疲れた。デスクの端っこ、ドーブル柄のコースターに置いてあるマグカップを手に取る。残ったコーヒーはすっかり冷えていた。少し悩んで「もったいないか」と飲み干す。

「うぐっ」

案の定、酸化したコーヒー特有のすっぱさが舌に刺さった。思わず顔をしかめて、呻き声がもれてしまう。

私がいま書いているのは、先日行ったアローラリーグ視察の報告書。提出の締め切りにはまだ猶予があるけれど、こういうのは先延ばしにしていると痛い目に遭う。タイミング良く重なった今日の夜勤で片付けるしかない。
ポケモンリーグ総本山であるセキエイリーグでは、緊急時の対応や夜にリーグに挑戦したいトレーナーのためにトレーナーだけでなく、スタッフも持ち回りで夜勤に入ることが多い。とはいえ、常に何かがあると身構えている必要は無い。私が所属するリーグ運営課は後者はともかく前者では出番がないからだ。

そんな今日は、バトルの予約がない。つまり、この時点で私の出番はほとんどないといえる。夜勤時に行なう業務は大方片付いたし、集中するにはもってこいの環境になった。ここで報告書を書かずして、いつ書くのかといった状況。
壁に掛けられた時計はとっくに日付を越えている。日中に寝ているから睡魔は感じないけれど、0時を越えているという実感だけであくびがもれてきた。

「ええと、あと書くことってなんだろ」

出勤してからずっと頑張って書いたおかげか、だいぶ完成に近づいたんじゃないだろうか。内容をざっと確認する。もうだいたいのことは書いてしまったように思える。しかし、抜けはないに越したことはない。この報告書を元に来年度以降の視察内容も変わっていくのだから余計に。なにより重要なのは、これをチェックするのは共にアローラへ行ったワタルさんだということ。

「ワタルさん、か……」

つい、名前を呟いてしまう。同時にワタルさんから見せてもらった刺青のことを思い出した。
実のところ、あれを目にした日から、こうやってふとした拍子に彼の刺青のことが浮かんでしまうようになった。彼の手首から肘までを埋め尽くしていた黒い紋様が、焼き付いている。

ワタルさんは言っていた。身体中に彫られている、と。軽い口調で、世間話をするように。
あの刺青が、彼の表情が、声が、未だに離れない。ずっと脳裏の奥に、瞼の裏に、ちらついている。こうして気になってしまうのは、単純にデザインとして興味を持っているから――だと、信じたいのだけれど。

「それにしたって、こんなに忘れられないことあるのかなぁ」

そりゃあインパクトは強かった。とてもびっくりした。あの温暖な気候なアローラで、いつものバトルスーツの格好のままというのもなかなかだったけれど。そんなことが些細に感じるぐらいに、刺青の印象が残っている。
彼の身体に刻まれているあの紋様を知っている人は、どのくらいいるのだろう。きっとそんなに多くはないはずだ。四天王のみなさんだって、もしかしたら――。

ぞくり、と背筋に緊張が走る。私は本当に知ってしまったよかったんだろうか。「見せていい」と判断したのはワタルさん自身だ。だから実際、私が見たことについては彼にとって構わないことなのだとは思う。思いたい。

けれど、あの刺青は軽々しく触れてはいけないものであることも違いなくて。加えて私は、あの人だけの紋様がどこにあるかも知っている。ただでさえ彼の秘密を知っている人は少ないというのに、さらなる秘密――彼自身の紋様が心臓の知覚に刻まれていること――を重ねて知っている人間は本当にごく僅かなのでは? 限りなく少ないその中に私が入ってしまっている?

「見せて欲しいなんて、なんであの時言っちゃったかなぁ……」

深く、重いため息が誰もいない事務所に響く。あんなことを言わなければワタルさんの刺青≠ェ彫られている場所なんて知らずにすんだのに。
胸の奥、燻るような好奇心に気づかないふりをして、私はもう一度画面へ向き直った。


***


書き上げた報告書を持って、チャンピオン執務室へ向かう。データで充分な気がするが、変なところでアナログになるのが不便だ。でも機密性でいえば、こちらのほうが上なのかも。データと違って長期保存にも適しているし。わからないけど、そういういろいろなものを考慮した結果なのだろう。

幸か不幸か、今日はワタルさんも夜の当番だ。多忙なワタルさんに直接提出できる機会はそう無い。そういうこともあって、今日のうちに仕上げてしまいたかったのだ。努力のかいもあって、完成することができた。
立ちはだかる重厚なドアは、それだけでプレッシャーを放っている。「よし」と気合いを入れてノックを数回。

「どうぞ」

当たり前だが、ワタルさんの声が扉の向こうから届く。失礼します、と返してノブを回した。ワタルさんは書類を片付けていたようで、顔をあげずに「これだけ片付けたい」とペンを走らせている。促されるまま、執務室に備えられているソファへ座った。これはちょっとタイミングが悪かったかもしれない。

「報告書だろう? アローラリーグ視察の」
「はい。そうです。あの、お邪魔でしたら出直します」
「いや、大丈夫だ。もう少しだけ時間をくれ」

……私も急いでいるわけではないからいいか。
改めてソファへ座り直すと、その気配に気づいたのか「ありがとう」とワタルさんは答える。しばらくして、筆記音が止まった。間髪入れずに椅子を動かす音がする。彼はこちらへ近づくと向かいのソファへ腰を下ろした。

「すまない。待たせた」
「いえ、全然」
「報告書、もらうよ」

差し出された手に心臓が跳ねる。理由はただ一つ。袖口の奥にある、刺青を思い出したから。目視はできないけれど、布の下に確実に在る≠セけで無駄に緊張してしまう。
私は知ってしまっている。紡がれ繋がれた歴史と、それを彼が継いでいることを。
書類を渡そうとして、無意識のうちに私が視線を逸らしたことを目の前の彼は気づいてしまったようだ。その理由も、もちろんお見通しだろう。ワタルさんはふっと口元を緩め、探るように私を見つめてくる。

「気になるかい?」
「き、気になるというか」

言い淀む私とは反対に彼は愉しげだ。受け取った報告書に目を通しながら、言う。

「腕なら、また見せてもいい」
「一族の人以外は、目にしちゃいけないんじゃなかったでしたっけ……?」
「だってチクマくんはもう腕の部分は見てしまったじゃないか」
「それはワタルさんが!」
「ああ、そうだな。――おれが、見せたんだ」
「……っ!」

彼の瞳の奥。深い灰色の瞳孔が鋭くなり、私を貫いた。途端に喉の奥が詰まり、息が苦しくなっていく。ワタルさんの出した低い声が耳の奥で鳴り止まない。
狼狽える私を尻目にワタルさんは手にしていた報告書を置くと、自らその袖口を捲り上げた。
バトルスーツ、インナーの下から肌が露出される。同時に、僅かではあるがあの刺青も。ちらりと覗くそこにある黒い紋様から、いつの間にか目が離せなくなっていた。

これ以上はいけない。わかっている。わかっているのに、もっと見ていたい。何かが囁いているのだ。酔いしれろ、と。その囁きに耳を貸しているうちに自分≠ニいう存在が遠のいていくような感覚に陥っていく。それは恐ろしいはずなのに、どこか心地よさも感じた。あたたかなものに包まれているような。どこか冷たいなにかに巻かれているような――

「それ以上はだめだ。戻ってこい」

瞬間、意識が引き戻される。頭を殴られたような衝撃が襲ってきた。心臓が痛いほど波打っていて、汗が噴き出す。くらくらと痺れる視界の中でワタルさんだけがはっきりと捉えることができた。私を見つめる彼の冷静な視線が、今はありがたい。すっと落ち着いていく心を感じながら、震える声で必死に彼へ尋ねた。

「ワタルさん、いまのは……」
「すまない。少し戯れが過ぎた」

ワタルさんは静かに謝罪を口にすると「チクマくんは惹かれやすいみたいだな」と目を伏せた。

「ひかれ、やすい?」
「たまにいるんだ。おれたちのような、歴史を重ねてきた血脈に惹かれやすい人間が」

彼の言っている意味がわからない。別に私はそこら辺にいるただの一般人に違いないのに……? 私がぽかんとしていることが伝わったのだろう。ワタルさんは「まあ些細なことだよ。気にしないでくれ」と苦く笑った。そこまで言って「気にするな」はないだろうと反論しかけたが、かといってイチから説明されるのも困る。そもそも理解できる気がしないからだ。なにより、これは下手につつかないほうがいいモノであると本能が判断していた。
開けてはいけない箱の前に私はいま、立ってしまっている。

「ともかく、この刺青のことは忘れてくれ。――といっても、いまのきみには難しいかもしれないが。まずは考えないように。そのうち薄れ、忘れるさ」
「……わかりました」
「そんないかにも『残念だ』なんて声を出さないでくれよ」

困ったような表情で指摘され、ようやく気づく。私は確かに「惜しい」と感じてしまっていた。忘れた方がいいはずなのに拒否する自分が心の内にいる。例えワタルさんの指示だとしても、あの刺青を、この秘密を、忘れたくない。――やっぱり私はあの刺青をもう一度見たいのだ。どうしようもなく、あの存在に惹かれてしまっている。ぎゅっと拳を握り、意を決して叫んだ。

「ワタルさん! 私、あのっ!」
「だめだ。おれの戯れがそもそも悪かったが、これはチクマくんのためでもあるんだ」

堰き止めるかのようにワタルさんが言い放つ。その鋭さはぴしゃりと私に叩きつけられた。精神的に言葉を塞がれた私は胸の内に悲しみが沁みていく。まるで大好物を取り上げられたときのような悲しさだ。気を抜けば今にも泣いてしまいそう。それに耐えるべく、私はくちびるを噛みしめた。
そんな私の様子を見た彼はぐっと眉根を寄せる。何かを考えてこんでいるのか、眉間の皺は深さを増していった。少ししてから、ワタルさんは私へ静かに告げた。

「仮に、本当に仮の話だ。もし、きみが諦められないと言うのなら」
「言うのなら……?」

鋭い瞳孔が私へ向けられる。宿る熱に心がどうしようもなく踊った。私は唐突に理解してしまったのだ。彼に刻まれた歴史の重さは刺青だけではない。ワタル≠ニいう人そのものに、一族の歴史は刻まれ、継がれているのだ。
ワタルさんの重い声が、私を誘う。

「覚悟が決まったら、来るといい。そのときはおれも歓迎しよう」

――きっと遠くない未来に訪れてしまうのだろう。
そんな予感がワタルさんと私の胸に、熱とともに宿っていた。



竜の腹の中へ。
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