その部屋は静寂に支配されていた。耳が痛いぐらいに。ページを捲る音だけが響く。それが重なる度にアイルは緊張で身体を固くしていった。
とはいえ、指が止まれば止まったで、生きた心地がしないのも事実。資料に不備は無かっただろうか。もっと細かく内容を煮詰めればよかった――後悔は先に立たず、とはよくいったものだ。身をもってそれを実感するとは思わなかったけれど。
自分を落ち着かせるように口をつけていたコーヒーはすっかり無くなってしまっている。ああ、もうどうやってこの時間をすごしていけばいいのか、と頭を抱えそうになった。これでは生殺しだ。

「――なるほど」
「!」
 
ようやく相手から発せられた声に肩が跳ねた。目の前のセキエイチャンピオンは読み終えた資料を机上に置き、アイルと違って中身の入ったカップを傾ける。

「アイルくんといったね」
「はい」
「よくまとめられた資料だ。つまりきみはセレビィの研究をしたいということでいいのかな?」
「そうです。つきましては、カントー地方そしてジョウト地方のトップである、セキエイチャンピオンのワタルさんから許可をいただきたく、本日は伺った次第です」
 
アイルの口からよどみなく流れる言葉から台本めいたものがあると見抜きながらも、ワタルは「なるほど」と頷いた。そして彼女がとても緊張していることも、お見通しである。
セレビィ――それはジョウト地方における幻のポケモン≠フ一体。かのポケモンの研究をしたくアイルははるばるこのジョウト地方までやってきた。

通常、出入り禁止の場所や極秘資料を利用したいという特別な理由が無ければ、基本的に幻のポケモンといえど研究は自由だ。もちろんチャンピオンの許可もいらない。特に今回のセレビィが住処としていると言われるウバメの森は町の行き来にも使われるような土地でもある。
加えてアイルが閲覧希望している資料はヒワダタウンの郷土資料であり、それらは全て一般公開されている。強いていうなら、ヒワダタウンジムリーダー・ツクシに申請が必要なぐらい。
つまり、このようにチャンピオンからの許可は本来不要なのだ。

しかし、状況が一変した。それは先のロケット団事件によるものである。カントー・ジョウトを股にかけ、暗躍していたポケモンマフィア。ポケモンの生態研究および強奪事件。ラジオ塔のジャック。テロまがいのエトセトラ。その事件自体は目の前のセキエイチャンピオンを始めとした有力トレーナーたちのおかげで解決したが、それ以降、カントー・ジョウト地方においてのポケモン研究はしかるべきところへの申請と許可が必要になってしまった。それだけいかりのみずうみ≠ノ流されていたとされる怪電波は危険なものだったのだ。

特にアイルが研究したいのは幻のポケモン=B通常のポケモンとは対応が異なるようで「こちらはリーグ管轄ですので……」と研究機関の申請窓口で断られたのは記憶に新しい。だからこうして今日は資料をまとめ、念のため推薦状を携えてやってきたのだ。
そして案内されたのは、チャンピオン執務室。まさか、ワタルの許可が必要な案件だとは思わず、先ほどからアイルの身体はかちこちと固まっている。てっきりリーグ職員に渡して、後日結果がくるのだとばかり思っていた。目の前で読まれるとは……予想外にもほどがある。

「いくつか質問をしても?」
「……もちろんです」
 
ワタルの相手を探るような声に、彼女の背筋が伸びた。息を呑む音が響く。どうか簡単なものでありますように、と心の中で祈るアイルへ質問は投げかけられた。

「きみのプロフィール、珍しい経歴だ。ポケモンレンジャーからフリーの研究員への転向なんて、あまり耳にしたことがない。出身は……オブリビア地方か。ああ、だからトレーナーではなくポケモンレンジャーへ?」
「はい。オブリビアはバトルトレーナーよりもレンジャーの方が一般的でしたので、自然と」
「レンジャークラスも高かったんだな」
「はい。トップレンジャーになれたことは、今でも私の誇りです」
「そんなきみが研究員に、ね。差支えなければ、転向の理由を聞いても?」
 
その程度の質問なら大丈夫だ、とアイルはほっと胸を撫で下ろす。ワタルの言うとおり、彼女の経歴はかなり特殊である。
バトルトレーナーから研究員になることはよくあることだ。「ポケモンのことをもっと知りたい」と学問の道に進んだ人は多い。しかし、レンジャーからの研究員とはいうのは――数えるほどしかいないだろう。現に彼女の周りにもいないし「難しいんじゃないか」と面を向かって言われたこともある。

「レンジャー時代の任務でセレビィのことを知りまして。そこから、徐々にそちらに興味を持ちました。特にセレビィはあまり研究されていないポケモンでもありますから」 

資料の通りに、とつけ加え、にっこりと微笑む。そんなアイルの表情のさらに奥を探るかのように、彼は「そうか」と声をもらした。

「ディアルガも研究対象として今までシンオウにいたようだね。なるほど、きみは『時間』についての研究をしているのか?」
「そう、ですね。セレビィと似た系譜のポケモンを選んでいます。自然と『時間』にまつわるポケモンになっていました」
「なるほど、セレビィといえばときわたり≠セものな……」
 
さすがチャンピオン、頭が回る。すぐさま本当の研究内容まで見抜かれてしまった。彼の言うとおり、アイルの本来の目的はセレビィの持つときわたり≠ナある。一を話して十を理解するとはこういうことなのだろう。
彼は資料をめくり、再考しているようだった。訪れる静寂の時間。緊張によりくらくらと揺れる頭でアイルは「最初から素直に時間の流れについて研究をしていると言えばよかった!?」「下手に取り繕うのはまずかった!?」と自問自答を繰り返す。
 
次第に「だめだったら」という不安が胸を過る。アイルが希望するのはフィールドワークとヒワダの研究資料の閲覧。せめて、どちらかだけでも許されないだろうか。
ぐるぐると嫌な考えがめぐりはじめる。せっかく用意してくれた推薦文もダメになってしまうかもしれない。忙しいというのに二つ返事でそれを用意してくれた友人にも、申し訳なさが募る。そんなアイルの胸中を知らずに彼は言った。

「許可は出そう」
 
それだけで一瞬にして暗い気持ちが吹き飛んだのか、ぱあっとアイルの表情が明るくなった。そのわかりやすさにワタルは笑いを噛み殺す。思ったより彼女、抜けているところあるな、と。

「ただ、条件がある」
 
すぐさまぴしり表情が固まる。いや、本当にわかりやすい。

「そんなに身構えないでくれ。そうだな……3日に1度、レポートを出してくれないか?」
「レポートですか?」
「ああ、どんな形式でも構わないが、できれば書面が望ましい。3日ごとにポケモンリーグに提出にきてほしい」
「えっと」
 
正直なところ、この提案はアイルにとってかなり難しいラインを攻めている。口ごもる彼女に確信を持つ。諦めるか、勧めるか微妙なところなのだと。
なにせ、アイルの研究は積み重ねにて結論を出すタイプだ。文献を漁り、話を聞き、フィールドワークをする。そうして結果を出していく。3日ごとでは、下手したら「文献を読みました。ここを突き詰めていきます」の一文ぐらいになる可能性もある。
ワタル自身も難題を言っている自覚があるので、一応のフォローを彼女へ入れる。

「実を言うと、これは建前でね」
「た、建前?」
「そう。建前。きみのことを不審に思っているわけじゃない。こうして立派な推薦状も用意してくれている。つまり、身元は保証されているから、アイルくんがロケット団と繋がっているとも思えない。ただ、何かあった時に君は無実だと証明できるようにアピールできるものがあると、ありがたいんだ」
「それが、レポート?」
「ああ。きみの研究が早々に片付くものではないとおれもわかっている。要は毎回提出している、という証明があればいい」
 
といっても、手を抜かれると困るけれど、と付け加える。それは言外に「ちゃんとしたものを提出しろ」と言っていることに他ならないことを、アイルは察していた。

「研究に加え、3日ごとのレポート。ハードワークであるとは思うけれど、こちらとしてもロケット団のことがあったからね。――協力してくれると助かるんだが」

腕を組み、放たれる言葉。意味深な笑み。瞳孔が細く鋭くなった、こちらを焼き尽くすように燃える瞳。これが王者の持つ覇気というものなのだろうか。

その全てを全身で受け、アイルの息が止まる。試しているのだ、自分を。「研究したいならこれぐらいやれるよな?」と問いかけている。彼の得意とするドラゴンタイプのような、鋭い視線はこちらの隙を探っている。気を抜いたら、喰われてしまうだろう。

一切手を抜こうとしないその気迫に、押し負けそうになるところをアイルは必死にこらえた。自分にだって譲れないものがある。『諦める』という選択肢は、最初から持ち合わせていない。

「やります! します!」
「わかった。今日――はさすがにもう時間が経ちすぎているし、明日から3日後にまたこのポケモンリーグに来てくれるかな?」
「はい!」
 
ご許可、ありがとうございます! と彼女は勢いよく頭を下げた。
そこからいくつかの手続きを経て、アイルがようやくリーグから出るころには、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。標高の高さ特有の寒さが肌に刺さる。胸いっぱいに酸素を吸って、吐き出す。頬を叩いて、気合いを入れた。
大丈夫、レンジャー時代もキツい任務を何度もこなしていたのだ。トップレンジャーとしても名が広まっていたのだし、これぐらいなんとかなる。いや、してみせる。アイルは沈みかけている太陽を睨み付け、拳を突き出した。

「やってやるぞー!」


***


チャンピオン執務室。客人が去ったそこへ特別回線から回された通信を、保留ボタンで繋げる。

「もしもし?」
 
受話器の先からは凛とした声。知ったそれについ息が漏れた。それを相手は耳ざとく聞きつけて、クスクスと笑っている。

『今、大丈夫かしら?』
「ああ、まあ」
『アイルに許可をくれてありがとう。喜んでいたわ』
 
ああ、すぐに彼女へ連絡取ったのか。やはりあの子はわかりやすいな、と、くるくる変わっていた表情を思い出す。

「きみの推薦状があったからな」
『でも3日ごとのレポートはやりすぎじゃないかしら? なぜそれを課したか、わからないわけではないけれど』
「仕方ないだろう。こちらとしても万が一に備えてだ」

ふぅん、と納得しない声。

「――いくらきみからの評価があったとしても、おれはおれ自身で彼女を試す。あの子自身を見極めさせてもらうよ」
『ええ、存分にどうぞ。アイルならやりとげるでしょうから、心配していないの、あたし』
「…………」
『アイルは信念を持っているわよ。――あたしたちにはわからない、彼女だけに課せられてしまった、なにかがある』
 
あの子供たちのようにね、とシロナは静かに言った。その子供≠ノ心当たりがないわけではない。頭を過ぎる少年の顔を払うかのように、ワタルは髪を掻き上げた。

「……そろそろ時間だ。切ってもいいかな?」
『あら。お忙しいところごめんなさい。じゃあ、またチャンピオン会で。次はホウエンで会いましょう。それまで元気でね、ワタル』
「ああ、シロナも。またホウエンで」
 
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