お腹に与えられた衝撃で、アイルは呻き声と共に目を覚ました。相棒へのダメージを自分が与えたというのに、そのポケモンはのんきに喉を鳴らしている。

「そういう起こし方はやめてって言っているよね、エネコ……」
「ニー!」
「そんなご機嫌な声出されてもなぁ……」

腹の上でじゃれつくエネコを眺めた。こうなれば何を言っても聞かない。諦めてそのままにしておくと、二度寝の波がやってくる。人間、慣れればどこでも寝られるものだ。
うとうとしていると、途端に重さが消えた。横からエネコを持ち上げたのは、呆れたようにこちらを見下ろすルカリオだ。彼は「何やっているんだ」と言いたげな視線を投げかけてくる。トレーナーはアイルだというのに、この態度。どちらがおや≠セかわからないな、と半分寝ている頭でぼんやりと考える。そんな彼女の様子を察し、

「ガウ」
 
いい加減起きろ、と吠える。

「ごめんって。ほら、お姉ちゃんも反省しているみたいだから」
「ニー……」
「ね?」
 
耳もしっぽも垂らして、ルカリオを見上げるエネコ。それを見て「まったく」と言わんばかりに、もう一声鳴いて、ルカリオはエネコを静かに降ろした。エネコもまた「ごめんね」と言うように彼の足下にすり寄る。これで許してしまうのだから、ルカリオもあの子に弱い。

その様子を微笑ましく思いながら、アイルも布団からもぞもぞと起き上がる。身支度を整え部屋を出ると、民宿の中庭には手持ちのポケモンたちがそろっていた。彼らはとっくに準備万端だったようで、アイルの姿が見えた途端、駆け寄ってくる。

「マリルリとデンチュラもおはよう。ご飯用意するね」
 
民宿の女将に借りているトレーへポケモンごとにフーズを入れていく。待っていたかのようにポケモンたちもフーズに頬張った。

「エネコ、今日もみんなをボールから出してくれてありがとう。私も朝ごはんいただいてくるから、もう少しよろしくね」
「ニー」

アイルの一番のパートナーであるエネコの頭を撫でれば「任せなさい」と言う様に勇ましく答える。まったく頼りになる相棒だ。朝の起こし方だけがいただけない。

アイルがヒワダタウンへ滞在して1ヶ月が経つ。セレビィに関する郷土資料は思いの外多かったのは嬉しい誤算だったが、ここから自身の目的とするときわたり♀ヨ連の記述を抜粋していかなければいけないのは、正直骨が折れた。持ち出し禁止な資料ばかりだから、それらが置いてある会館をジムリーダー・ツクシに開けてもらい、朝から晩までこもる。それに加え、ワタルに課せられた3日ごとのレポートもじわじわとアイルを苦しめていた。
次のレポートは明日。今夜は夜更かしをしたとしても、完成にもっていかないといけない。しかし、もう一つ懸念事項が彼女にはあった。

「お金、そろそろ怪しいよなぁ」
 
味噌汁を啜り、自分の財布の中身を思い出す。当初は無料で泊まれるポケモンセンターに滞在することを考えていたが、ジョウト地方の駆け出しトレーナーがウバメの森でポケモンのレベル上げを行うせいか、毎日多くの利用者がいた。部屋にも限りがあるため、連日満室だ。

たまに空室が出来ても、ポケモンセンターは年若いトレーナーへ譲ることが大人への暗黙の了解となっている。つまり、もう立派な大人であるアイルは、ポケモンセンターではなくこの町にあるもう1つの宿泊施設への滞在していた。
そうなると不安になるのは、資金面。ひもじい思いをするほどではないが、そこまで潤沢にあるわけでもない。節約できるところはしっかりと節約し、稼げるときに稼いでおかないといけない。財布の中身と研究の進捗を天秤にかけ――

「今日はバトルしにいくかぁ」

食べ終わった朝食の食器を下げ、奥にいる仲居に礼を言い、ポケモンたちを迎えに行く。同じく食事を終えた手持ちたちに「今日はバトルをしに行きます」と伝えれば、デンチュラが嬉しそうに鳴いた。手持ちの中でも彼が一番バトル好きだから、じっとしているよりも嬉しいのだろう。

マリルリとデンチュラをボールに入れ、次はルカリオを、とボールを向ける。しかし、彼はすぐにボールに入ろうとせず、こちらを伺うような控えめに鳴いた。
それはきっと資金面のことであり、研究のこともあるのだろう。ルカリオはいつもアイルを気にかけていた。手のかかる姉を持つ弟のように。
アイルはそんな彼の気持ちを察し「大丈夫だ」と伝えようとした時、ルカリオの足元にエネコが近づいた。小さく鳴いて、2匹はそのまま言葉を交わす。すると、ルカリオは先ほどとは打って変わってすんなりとボールの中へ入っていく。

「……もしかしてフォローいれてくれていた?」
「ニー!」
「お世話かけます……」
 
まったくだ、というように彼女はまた鳴いた。きっと、ルカリオの心配を晴らしてくれたに違いない。
さて、荷物を取ってでかけるとしよう。ああ、今日はいい天気になりそうだと、青い空を仰いだ。


***


「マリルリ、冷凍ビーム!」
「ああ! ハッサム!」
 
バトル相手である少年のハッサムが倒れる。一方こちらのマリルリは元気なまま。つまりアイルの勝利だ。

「ちっくしょー! 勝てると思ったのになぁ」
「本当に強かったよ。私が勝てたのはギリギリだったもの」
 
実際彼は強かった。ひやりとした場面が何度もあったのが事実。ただ、彼女のほうが鬼気迫っていただけだろう。生活面的な意味で。
なにせアイルはそこまでバトルが得意ではない。だというのに、バトルマネーで稼がないといけないのだから必死なのである。あと子供相手でも手を抜かないのがマナーだ。シビアな世界なのだ、バトルというものは。
軽い雑談をした後、少年とはバトルマネーのやりとりをして別れた。「またバトルしようぜ!」と手を振る彼は根っからのバトルトレーナーだ。

「……もう少し、していくかな」
 
自然公園まで足を延ばしたかいがあって、トレーナーとのバトルは順調で目標の金額まであと少し。しかし、可能であれば余裕をもっておきたいのが本音。あともう少しだけバトルに時間を使おう。ポケモンたちもまだ元気だから、自分の指示さえ間違えなければ負ける心配もなさそうだ。レポートは徹夜して頑張ろう。

ただ、ちょっと疲れてしまった。アイルは目についた自販機でおいしいみずを一本買い、ベンチに座る。ポケモンたちをボールから出し、それぞれにきのみを与えた。ふぅ、と息をついて、背を伸ばす。凝り固まった肩が激しい音を立てた。

「隣、座っても?」
 
ふと聞こえた声。相席希望だなんて珍しい、とその声の方を見る。

「はい、どうぞ――っえ!? ワタルさん!?」
「はは。ナイスリアクション」

すっかり顔なじみになった彼は、笑いながら当たり前のように隣に腰を下ろす。おろおろしているのはアイルだけのようで、ポケモンたちも特にリアクションも無い。きのみを食べることに夢中のようだ。

「ど、どうしてここに?」
「エンジュに用事でね。リーグに帰ろうとしていたところだったんだ。空からきみがバトルをしているのを見かけたものだから、つい」
 
きみもバトルするんだな、とワタルは目を細める。鋭くなる瞳孔。挑発的なそれはバトルトレーナーとしての性なのだろうか。

「ええっと、バトルは得意ではなくて……」
「得意ではないことと、強さは比例しないよ。先ほどのバトルを見る限り充分にアイルくんは強いほうだろう」
「買いかぶりすぎです。本当に強くないんです」
「そうかな? きみ、シンオウのバッジ、8つちゃんと集めているだろう?」
 
バッジのことバレている。どこから、とアイルは考えて、頭を過ぎる一つの顔。彼女ならぽろっと言ってしまうに違いない。それか自分を調べたか――どちらにしろ、もう誤魔化せはしない。
アイルは観念したかのように、頷いた。ただ一つ誤解をしているようなので、そこだけは訂正をいれたい。

「バトルを極めたいというよりも、シロナさんに会うために集めたようなものなんです。だから、普通の人よりもトライ&エラーが苦じゃ無かったから、集められたんですよ」

今でこそ、アポイントメントを取れば誰でもチャンピオンにも会えることを知っている。しかし、当時はそういう知識も無く研究の世界に飛び込んでしまったから、リーグ挑戦しなければ会えないのだと勘違いしていたのだ。

「しかも『チャンピンに会うにはリーグしかない』的なことを吹きこまれたせいで……! そんなわけで、必死で集めました」

結局、秘伝技の関係もあり、バッジを集めたことは決してマイナスになったわけではない。しかし、当時はバトル慣れもしていないことから、時間もかかったし『ポケモンを倒す』ということに非常に苦労した。
レンジャー時代でバトルといえば、トレーナー同士のそれではなく野生ポケモンとのものが主だ。つまり、勝手が違う。しかもレンジャーにおいてのバトルは、相手ポケモンを負かすというよりも気を逸らしてキャプチャ――自分の意思を伝え大人しくさせたり、協力を仰ぐための道具だ――をするためのもの。根本から目的が異なっている。
そんなこともあり一般的なバトルに慣れるまでは、下手したら駆け出しのトレーナーよりもアイルは弱かっただろう。

「今でも積極的にバトルする方ではないんですが、デンチュラとマリルリはどちらかというとバトルのほうが好きですし……」

アイルに名前を呼ばれたと思ったのか、デンチュラとマリルリは甘えたそうにすり寄ってくる。そのマリルリの耳元を掻いてやれば、彼女は嬉しそうに身体を揺らした。

「あとは、その……私、フリーの研究員なので……」

ごにょごにょと顔を赤くして言葉を濁らせる。気まずそうに目を逸らしたアイルを見て、ワタルは彼女の言わんとしたことを察した。

「ああ、なるほど」

自身の懐事情を察せられ、アイルは耳まで顔を赤くする。バトルに全てを賭けるワタルの前で、お金関係の理由を口にするのは憚られていたのだ。
そんなことは気にしない。それぞれに事情があるだろう、とワタルは思うのだが、彼女は自分を思ってのことだと理解しているので、特にそれ以上追求することもなかった。

「どこかに所属していれば違うんですけど……」

本来、研究員は何かしらの機関に所属することが多い。つまり、研究所や企業などに所属していれば給与が出るのだ。博士≠ニなればリーグから研究費が与えられる。しかし、あいにくとアイルにはどちらも難しい。研究所や企業にはそれぞれの『研究方針』がある。それに自分は当てはめることはできない。

だからバトルマネーで生活費を稼ぐしかなかった。レンジャー時代の貯金も残っているけれど、いつ大金が必要になるかわからないから、なるべく手を出したくないのが彼女の本音。可能な限りはバトルマネーで賄いたい。
そういう諸々の事情に気づかないワタルではない。「そうか」と軽い相槌を打つだけだった。ただ、疑問もわく。

「そこまでして、なぜ研究を?」
「……やらなくちゃいけなくて」

アイルの手に力が入る。ペットボトルの容器が少し歪み、中に入った水が揺れた。その揺らぎの水面を見つめ、アイルはあの日≠フことに想いを馳せた。脳内に浮かぶ光景に気持ちが焦る。
急げと自身の心を煽るのはいったい誰なのだろう。

「私が、やらないといけない。見てしまったから、私が……」
 
らしくない暗い声。虚空を見つめているような瞳。どこか遠くへ消えていきそうなその姿に、ついワタルは彼女の肩に触れ、揺らす。

「アイルくん?」
「な、なんでもないです! やっぱり興味があるので、すごく、セレビィに!」
 
アイルは取り繕うように慌てて立ちあがる。もうそろそろ行く旨を伝えると、ワタルも特に引き留めることなく「そうか」と同じように立ちあがった。

「では、また明日、レポートを届けに行きますね」
「ああ。それなんだけど、もう大丈夫」
「え?」
「薄々わかっていたことだと思うが、あのレポートは君を試すためにやっていた」
 
「そうでしょうね」と言いかけ、慌てて口を噤む。そもそも条件を付けられた時点でわかっていた。彼の立場的を考えれば、そのことを否定することも非難することもできない。

「最初からきみのことは信用に足る相手だとはわかっていた。シロナの推薦状もあったしね。ただやはり自分の目で確かめたかったから、君を試した」

軽蔑するかい? と肩をすくめるワタルに首を振った。まっすぐ顔を見据え、言う。

「それは仕方ないことでしょうから。ロケット団のこともありましたし。慎重になるのは当たり前です」
「ありがとう。ただ、正直、きみは諦めるのかと思った」
「……諦める?」

ワタルの言葉をアイルは反芻する。

「ああ。結構キツかっただろう?」

別に無理に諦めさせるつもりはなかった。そのため当初からレポート期間は1ヶ月と決めていた。この期間ぐらいやりとげてもらわないと困る。そして、諦めたらそこまでとも思っていたことも事実。いくらシロナの信頼を得ていても、自分はまだアイルの全てを知らない。だから試したし、多少難しい試練を与えた。
これぐらい出来て当然。諦めるぐらいなら、その程度の夢だったということ。だが、彼女はその1ヶ月を乗り切った。

「だからもういいんだ。充分、きみのことは理解できた――」
「諦めるなんて、あり得ません」
 
アイルはワタルの言葉を遮るように言った。まるで彼の言葉が聞こえていないかのように。丸い瞳がまっすぐワタルを見つめる。その奥に揺れる光に、ワタルは息をのんだ。

「私は絶対に、何があっても諦めることなんてありえません。そんな生半可な覚悟で、私は今、ここにいない」
 
背筋を何かが走った。ワタルは身のうちから熱がわきあがってくるのを感じる。まるで強敵とバトルしているかのような、あの興奮が目の前の女性から感じるだなんて。

「きみはいったい――」
「あ! つまり、私はお眼鏡に適ったということでいいんですよね?」
 
瞬間、ころりと表情を変えた。先ほどの気迫はすっかり消え失せ、恐る恐るワタルを伺っている。

「あ、ああ。それはもう。充分にね」
 
やったー! とポケモンたちとハイタッチする彼女に、ワタルは詰めていた息を吐き出した。いったい彼女はなんなのだろう。わきあがる興味。彼女の本質を暴きたいという欲がふつふつと煮える。
しかし、一方であの笑顔に毒気が抜かれてしまうのも事実。なんというか、本当にわかりやすいのだ、彼女は。
こほん、と咳払いをして注意を引く。ワタルがいたことを思い出し、すぐさま慌てて身を正すアイルについ笑みがこぼれた。

「ただ、レポートとは別に、おれが純粋に君の研究に興味を持っていてね。たまにでいいから、進捗を聞かせてくれると嬉しいのだけれど」
「……そんな楽しいものじゃないとおもいますが?」
「それを決めるのはおれだよ」

改めてよろしく、と差し出された手に、アイルは少しためらった。なんだかその手に触れると、何かが動き出しそうな気がしたのだ。良いことなのか悪いことなのかはわからないが、大袈裟にいうと運命染みたもの感じる。

「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」

しかし、拒否する理由も無く。アイルは彼の手に自身のそれを重ねる。手のひらから伝わる彼の体温。ああ、これが最良の一歩でありますように、とか彼女は静かに祈るのだった。
 
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