ワタシラガの群れが自分と同じ高さを飛ぶ姿を見る度に、ラリニは「春だなぁ」と自分の心が弾んでいくのがわかった。日を重ねるごとに暖かさが増し、身を包んでいた防寒着を一つずつ外していく。身軽になれば、足取りも軽くなっていく。タクシーに乗り込む客の服装も重たい色より淡い色が多い。なにより日が落ちるのが格段に早くなった。そんな些細な変化にラリニが気づく頃、ガラル地方の冬は終わりを迎えていた。

そんな陽気にラリニも誘われてしまった。食べる昼食のサンドイッチも、つい春限定のものを食べたくなってしまう。具材がたっぷり挟まれたサンドイッチが並ぶショーケースの前に、先ほどからラリニは立ち尽くしていた。あれも美味しそう。これも気になる。でも予算的には――と考えていたら、収集がつかなくなってしまったのだ。相棒のアーマーガアはすっかり待ちくたびれて、あくびをしている始末。「ごめんごめん」と謝りながらも、未だにサンドイッチは決められない。

「どちらで迷われていますか?」
「え、あ、っと……すみません」
「いえいえ。そこまで悩んでいただけると嬉しいです」

悩み続けるラリニを見かね、話しかけてきた店員はスマイルを崩さずに「いま、人気なのはやっぱり春キャベツを使ったコールスローサンドイッチですね」と、人参のオレンジとキャベツの黄緑色が溢れんばかりに挟まれたサンドイッチを勧める。

「あとは新タマネギとハムが挟んであるこちらも。胡椒が効いていて、美味しいですよ」
「へえ……」
「変わり種ではありますが、そら豆とタマゴのサンドイッチも個人的に結構好きですね。苦手ではなければぜひ」

店員の勧めるサンドイッチはどれもラリニが気になっていたものばかり。いい加減、どれか決めないといけない。財布の中身と自身の胃の許容量を考え、結論を出さないと。ラリニがそのままショーケースとにらめっこしていると、ふっと背後から影が差した。他の客が来たのだろう。そうなると、ここを占拠しているわけにいかない。けれどまだ決められないのも事実。
ひとまず順番を譲るため、ラリニは身を避けようと振り返る。邪魔したことに対して謝罪もしなければ。
しかし、彼女が開いた口から出てきたのは謝罪の言葉ではなかった。具体的にいうと、名前を呼んでいた。

「ホップ!」
「こんなところで奇遇だな。今日のランチ選びか?」
「う、うん。そんなところ……」

濁された答えにホップは首を傾げている。ラリニだって予期せぬ場所で恋人に会えたことは嬉しい。けれどこんな――サンドイッチのショーケースの前でずっと悩んでいた姿は見られたくなかった。ついさっき通りかかって気づいた程度ならいいのだけれど。それを確認する勇気はラリニには無かった。

ホップは恋人の葛藤に気づくことなく、並べられたサンドイッチに目を向ける。途端に店員は先ほどのセールストークをホップへと繰り出していた。熱心に話を聞いた彼は「じゃあ、それぞれ一つずつください」と軽やかに答える。くるりとラリニを見て微笑みかけた。

「ラリニはもう買った?」
「買ってないけど」
「じゃあ、半分こするんだぞ! それなら悩まずにすむだろ?」

……ばっちり見られていた!
ぐあっと首まで真っ赤になったラリニは力なく頷く。というより、もうそれしかできなかったのだ。
羞恥で俯く彼女の頭をホップはわしゃわしゃと、愛おしそうにかき混ぜる。いっぱい食べることはいいこなのに変なところを気にするんだなぁ、なんて考えながら。



「ウールー祭り?」
「毎年、この時期あたりに毛刈りをするんだ。ウールーとバイウールーのさ」
「ホップのおうちも?」
「うちもいっぱいウールーいるからなぁ。あのアニキでさえ、駆り出されるぜ!」

ああ、そういえば、とラリニは思い出す。確かに毎年、この時期に新聞記事だったりネットニュースでダンデがウールーに囲まれている写真が定番になっている。もうそんな時期だったのか、と改めて春の訪れを噛みしめた。

二人で半分こした昼食を終え、出てきた話題がハロンでのウールー祭りだった。ウールーたちがたっぷり蓄えた上質な毛を、この時期に刈るのがウールー祭りである。ウールーを飼育しているのならどこでも行なわれる毛刈りだが、その中でもとりわけハロンタウンやターフタウンは有名だ。一度に刈るウールーの数が尋常ではないために。

「ハロンでの一大イベントだからさ。屋台とかポケモンバトルもあったりするんだぞ。あと、毛刈りチャレンジとか」
「毛刈りチャレンジ?」
「制限時間内にどのくらい毛刈り出来たか量を競うんだ」
「へえ。おもしろそう」
「――なら、来ないか?」

ぼそりとホップが呟いた。静かな声で、ひっそりと。
彼の頬はほんのりと赤く染まり、金色の瞳はうっすらと熱を帯びている。先ほどとは変わって、探るような声音でラリニを誘う。

「オレ、毛刈り結構得意でさ。去年なんて、ちょっとだけだけどアニキよりも量多くできて」
「うん」
「だから、その……オレのかっこいいところ、ラリニに見て欲しくて……って、めちゃくちゃ恥ずかしいこと言っちゃってるな、オレ! や、やっぱり今のナシなんだぞ! 忘れてくれ!」
「行く。ホップのかっこいいところ、私に見せて」

止められても行くからね。ハロンに押しかけちゃうから。
ラリニのきっぱりと言い切ったその言葉に、ホップはへにゃりと笑いながら「お手柔らか頼むんだぞ……」と真っ赤になった頬を掻いた。





ウール−祭りが開催されたその日はほどよく晴れ、ワタシラガの群れも気持ちよさそうに空を飛んでいた。ラリニはというと、牧草地に芝生の上に座り込み疲労に満ちた身体を休めている。そんな彼女にホップは冷やされたサイコソーダを渡した。冷たいサイコソーダは太陽の光を反射して、きらりと光る。
ラリニは一口、サイダーを飲んだ。しゅわりとした炭酸が喉に心地いい。

「おつかれさまだぞ」
「ウールーの毛刈りがあんなに重労働とは思わなかったよ! ホップはひょいひょいってやってるから、なんとかなるもんだと思ってたのに!」

ホップが毛刈りをするときは大人しく彼に身を預けていたウールーだったが、ラリニが挑戦すると暴れ回ってばかりだった。自分が不慣れなせいなのもあるけれど、どこまで力を込めてウールーを抑えていいかもわからず、四苦八苦どころの騒ぎじゃなかったのだ。
ホップが手伝ってくれたからいいものを。そうでなければ未だに自分はウールーたちに手を焼いていたに違いない。そんな光景が容易に想像できてしまうほど、ラリニにとっては重労働だったのだ。
重くため息を吐く彼女に、ホップはフォローをいれる。

「コツを掴めばラリニもうまくなるんだぞ。オレはほら、子供のころからやってるし」
「そういうもの?」
「そういうもの!」

彼の言葉を信じていないわけではないがラリニにとって。そんな自分の姿があまりにも描けないものだから、つい疑いの眼差しを向けてしまう。けれど貴重な体験だったことは確か。「来年こそリベンジする!」とたからかに宣言した。
そんなラリニにホップは胸を疼かせる。当たり前のように『来年』のことを考えてくれる恋人にときめいたのだ。口に出すとその恋人が照れてしまうから、内緒にしておくけれど。

「毛刈りチャレンジはこのあとだよね?」
「向こうの広場でやるぜ」
「応援してる。目指せ優勝だね」
「ああ! もちろんだぞ!」

実際、ホップは優勝が狙える圏内にいる。それを彼自身も自負していた。一番のライバルはやはり兄であるダンデ。ポケモンバトルでもウールーの毛刈りでも負ける気はさらさらなかった。去年はギリギリとはいえ勝ったのだ。今年だって勝ってみせる。それは再戦に燃える兄も同じことを思っているに違いない。結局のところお互いに負けず嫌いの兄弟なのだ。
――仮に違いがあるとすれば、ホップにはとびきりの応援団がいるというとこ。

「あの、さ」
「うん?」
「応援、今、もらってもいいか?」

甘い声、熱を帯びた金の瞳。自然と重なる二人の指先。近づく顔。
みなまで言わずとも理解した。ホップがなにを求めているのかを。そしてそれはラリニも、できることなら彼に渡したかった応援だ。
もうちょっと近づいて、とラリニが囁けば、ホップはそれにすぐさま従う。しばらく見つめ合ったあと、二人の吐息が交わり、くちびるがふれた。けれどお互いに応援は一回だけでは足りなかったようで、数が重なっていく。

吹き抜ける風は春のにおいがした。


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