喪失

6.0 割れる空からの声
茉紘


「姉さん、ぼく−−」
 次に聞こえてきたのはザシュッという嫌な音。亞の言葉が切れて何かを呑む音がした。振り返って目に飛び込んできた現実を認識しないように脳が働き始めている。
「つぐ」
 ぼんやりと亞の名前を呼んだ。亞は自分の心臓と、そこに突き刺さった異形の足を見て、もう一度僕の顔を見る。何か言おうと口を開いて、声が出ないことに気づいたらしく口を二、三度ぱくぱくと動かした。
「……ね……さ……」
 パチパチと、爆ぜる音がする。一歩後ずさりをした。亞の胸から徐々に炎が生まれている。それは見たこともないほどに白く、揺れていなければ炎だとすらわからなかったかもしれないものだった。
「つぐ?」
 理解が、追いつかなくて。口を開けば亞の名前しか出てこなかった。亞、どうしたの? 何をしてるの? 僕にはわからない。
「……た、い、たい」
 もう一歩後ずさる。容赦なく抜き取られた馬の脚が、支えを失った亞の体を地面に倒した。もう亞の足元は灰になっている。こんなの見たことがない。これは、ああ、これは、認めたくない、これは。
「……ね、さ……た、あ……け……」
「ま、って」
 まって、おねがい。まって。ぼくはわからない。
「ああ……ああ、あああ……」
 自分の口から発せられているのか、亞が呻いているのか。僕にもわからなかった。亞の口がまた何度か開閉を繰り返す。僕に何かを伝えようとして、力を振り絞っているみたいだった。
 白い炎はもうすぐ亞の半身を飲み込もうとしている。命が消えていく。これが忍鬼の死であることを理解したいのに、頭が追いつかなかった。亞が消えていく。死のなかに落ちていく。
「ぼ……く、も……ほ、の……が……あっ……」
「つぐ、まって」
 わからない。何を言いたいのかわからない。
「……きれ……で、しょ……」
 わからない。何を言っているのかわからない。
 綺麗なはずない。そんなはずない。爆ぜる音は増していた。亞が伸ばした手は力なく地面に落ちている。僕は動けない。体から血の気が引き、冷や汗がとめどなく流れている。何もできない。僕は知らない。僕はわからない。
 風が吹いて、亞の髪をかきあげた。炎とよく似た色をした目が潤みながらこちらを向いていて、それは呪いのように頭に焼き付くのがわかった。
 ハッとしてようやく、体が動く。気づけば僕は尻餅をついていたらしい。慌てて四つん這いになって亞へ手を伸ばした。
 炎が飲み込んでいる、亞の体は遠かった。もう半分以上が灰になっていて体は消えようとしている。
「亞!」
 亞の髪がまたひとつ、ひとつと灰に変わっていった。やっと届いてなんとか握りしめた指先から力なく微笑む亞の顔が一瞬だけ見える。呆気にとられる暇もなく、亞を炎は飲み込んだ。僕の手の中でただの灰になった亞は、もう一度吹いた風に乗って飛ばされていく。

 時間はきっと、そんな長いことたっていない。その証拠に目の前にはまだエクスピアシオンがいる。僕を狙っているのもわかる。ああ、なんだ、簡単なんだ。死ぬのは。人も忍鬼も関係ない、あっさりと、死んでしまうものなのだ。
 あたりの空気から湿度が消える。エクスピアシオンの魔法が発動されそうなこともわかる。パキパキと音がした。エクスピアシオンが動く足音がした。
 僕はその場から動く気がなかった。

「……ああ」
 生きることも、死ぬことも、諦めていた。
「……ああ、ああああ……」
 手のひらからあっさりいなくなった灰を取り戻すように握りしめる。
「……あ、ああ、あああああああああああ……あああああああああああああ」
 この声が僕のものであることに気づくのには時間がかかった。喉からではない。心臓から、僕の炎から吐き出される悲鳴のようだった。涙が溢れている。様々な感情が僕を飲み込んでいく。何もしない。何もできない。僕には何もない。
 ビリビリとあたりの空気を震わせる咆哮。
 天の使いか何かか、その魔物は僕の喪失を待たずに攻撃を開始した。

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