長い、長い夢の中にいる。
ゴポゴポと水泡の音がする。水の中にいるようにそれ以外の音が全て遮断されていた。うっすらと目を開けようとするが、うまくピントが合わず視界はぼやけたままだ。ゆっくり眼窩に差し込んだ光に目が眩み、思い通りに体が動かない。横になっていたらしい私は、起き上がろうと手をつく。いやに地面の感触がわかって、おかしいことに気づいた。
手を見やる。そのまま目に入った体を見やる。白い。白い、白い、白い。なんだこれは? それは人間の骨のような形、色をしていて、私の視界に入る。私は一体どうなってしまったのだ? 私はなぜここにいるのだ? 果たしてここはどこだ? 私は……
一体、誰だ?
*
さっさとどこかへ行ってしまった煤竹の後ろ姿を見送り、ふらふらとそこらへんを歩く。彼……もとい彼女が何も答えなかったのは、答えられなかったからではないだろう。
まぁなんにせよ、私には関係のないことだ。彼女が出す答えもまた、一般的な答えとなんら変わらないだろう。
「だいぶ物騒な世界になったね」
ぼそりと呟く。学園の中心には巨大な魔物がそびえ、地面からは触手が伸びる。よくわからない魔物が何度か襲ってきたが、リークイドが全て溶かした。
彼女にとってのアクズミが、私にとってリークイドだというのなら、私はリークイドから何をもらっただろう。戦う力? 死なない肉体……もとい骨? ”私”が本当に欲していたものは、なんだったのだろう。強くなりたい、とでも願ったのだろうか。何を手に入れても満たされなくなったのはいつからか。
「つまらないね」
この世界が滅ぼうとも、私には関係のないことだ。滅んだからなんだというのだろう? 滅ばなかったからなんだというのだろう? 私には同じことだ。
生き続けることを望めるのは生者の特権だ。
「くだらないね」
ねぇ、リークイド。君は私に何を与えてくれるんだい?
私の活動維持にはリークイドが必要不可欠であり、私の歩みや動きに合わせてリークイドも自動的に動いている。決して一体化している訳ではない別個の個体であるものの、私はリークイドがいなければかりそめの命ですら維持できない。
私の意図に反して歩みが止まる。それは本能的に、リークイドが動きを止めたことがわかったからだ。
「どうし……」
どうしたんだい、と尋ねようとしたその時、目の前に現れたその魔物はゆっくり微笑んだ。地味な既視感とともにその魔物の名前をつぶやく。
「リークイド」
ヤァ、と彼は言った。無論、この魔物に声帯はない。私に取り憑いている魔物は本来の彼が弱体化されたものであり、その一片でしかないことを思い出した。彼は私の頭の中に直接囁くように喋るのだ。
「どうして君が……」
−−−モウ ソロソロ イイカイ?
彼が私に与えた800年の余生の始まりは、私自身が死んだことを認識するところから始まった。己の置かれた状況すら何もわからなかった私は、ただとにかく周りに聞いた。聞いて聞いて、調べて、聞いて、そしてやっと掴んだのは、私自身がもう死者の類であるということだった。無論、聞いたり調べたからと言って記憶が戻ることは決してない。私は800年の間、それまで何年生きていたかもわからないかつての”私”の記憶を取り戻さないままに新たな記憶を蓄積した。
リークイドは”私”の肉体と記憶を代償に持っていった。そして死神のように、我々はいつか魔物に取り込まれるのだと誰かから教わった。
彼がいうもうそろそろ、というのはそういうことだろう。
「HAHAHA! 死神のお迎えかね」
彼は相変わらず無口な魔物である。もう何も言わず。しかし私の体のリークイドはその場から動く気配を見せない。それどころか、そのまま少しずつ目の前の本体に取り込まれて言ってしまっているようにすら見えた。
「お願いがあるのだよ」
ふと、この余生が終わると思ったその時、そんな言葉が口をついて出ていた。
自分が何を言おうとしたか気づいたときにはもう自分に対して笑みを漏らさずにはいられない。魔物の力が弱まっているからか、それとも800年の時がそうさせるのか。
「この学園を攻撃するのはやめてくれたまえ」
やはり彼は何も言わなかった。知っていたさ、君がその意思を持たないことを。君とずっと一緒にいたが、私は君のことを理解できなかった。煤竹くんが少し羨ましいよ。アクズミくんが彼女を理解し、彼女もアクズミくんを受け入れ、共依存している姿が。私は君に依存するしかなかったね。
それでも君は800年も待ってくれた。君にとってそれはちっぽけな時間だったかもしれないけれど、なぁ、リークイド。私は少しだけ、嬉しいのだ。私と800年も一緒にいてくれたことが。記憶は戻らないけれど、”私”がそう望んでいたような気がするのだ。
「……頼むよ」
一滴、一滴と私の体から彼が離れていく。最後くらい、声をかけてくれてもいいじゃないか、なぁ、君。じゃあな、くらい、言ってくれよ。
意識が遠のく。痛みはない。音が遠ざかる。ゴポゴポとした水泡の音に、飲まれていく。
*
そこは国と国の間の小さな村。人口なんて100にも満たない、小さくて静かな、それでも幸福で溢れている村。自給自足の中、足りないものは近所で補いながら多くは望まない。人間より少し長生きし、魔力が多いくらいの亞人たちだけがここでは暮らしている。生も死も、ちゃんと受け入れて。
原っぱで子供が駆けている。私の子供だ。小さいが、暮らす分には十分な家から女性が出てきた。特別美人ではない。けれど優しくて、誠実で、まっすぐな女性。私の妻。私は木陰に寝そべり、ゆっくりと目を閉じる。妻が子供の方へ駆けていき、はしゃぐ声を聴きながら、緩やかに夢と現の狭間に落ちていく。
ゴポゴポとした水泡の音が、遠くで鳴っている。