帰国命令
最後に見たのは、ハンスの美しい青い瞳だった。奇麗に光り、涙に揺らいで居た。
次に目を開けた時、其れは見た事も無い景色だった。此れが黄泉の世界か、意外と質素と起き上がり、視界に映った姿に息を飲んだ。
「宗一…?」
其の後姿に声を掛け、動く頭を見詰めた。死んで居なかった。いや、死んで居るのかも知れないが、其処に宗一に似た誰かが居るのかも知れない。
そう例えば、同じ髪色を持つ宗一の母親。
訳の判らない頭で必死に考えた。
「起きたか。」
其の言葉で、自分が生きて居る事を知った。家か診療所か、其れにしては見慣れない。では一体此処は何処か。
黙って居る時一の心中が判り、宗一は鼻で笑った。
「間抜け顔。」
「な…っ」
行き成りそんな事を云われ、時一は文句も云えず、口を魚の様に開閉させていた。
「此処が何処か、知りたい?」
背を向け云う宗一に、頷く。
「ほんなら。」
笑った口元。タイで視界を塞がれ、時一は困惑した。此の行為と質問の関係が知りたい。知りたいが、身体は宙を浮き、抱えられた。かんかんと高い音が響く、続いて聞こえた音。
「波の音…っ?」
聞こえた波の音。間違える筈無い、潮の香りもする。船のエンジン音もした。
声を荒げた時一の視界を開き、目に映った其れ。広い水平線。太陽の光が水に反射し、輝く。
「何ぉ処だ。」
楽しそうに笑う宗一に、溜息を吐いた。
「船の上。」
「正解。」
時一を下ろし、手摺りに背を預けた。火の点いた煙草は、船が作り出す風で紫煙を消し流す。其の流れを呆れ乍ら眺めた。
意識を失って居る間に、事が運んだ。
此の煙の様に、あっさりと流された。
「勝手に…」
「勝手?」
強く手摺りを掴み、時一は宗一を睨んだ。
「俺は日本に帰るとは云ってないっ」
「ほんなら、あん侭死んで良かったんか?ん?」
其の言葉に声を無くす。一体自分が如何したいのか判らない。独逸に居れないのは判って居た、だから在の時、此の侭死んでも良かったと思ったのは事実。けれどそんな事で良いのかと思うのも事情。
「俺は、別に。」
「冗談じゃない。」
煙草を投げ捨て、強い声に身が縮んだ。
「何の為に独逸に連れて行ったと思ってるんだ。」
「其れは…」
医者になる為。そして、其れを果たした。詰まり、もう独逸に居る意味は無い。知って居るのに、居たかった。
日本は捨てたと、自分に言い聞かせて居た。其れで強く為ると、思って居た。
医者に為った其の後は、人として強く為りたかった。
だから独逸に居たかった。
「勘違いするなよ。」
「え?」
普段は優しい宗一の目が、冷たい。
「如何やっても御前は日本人なんだ。独逸に居る事は、許されない。」
そんな事、はっきりと云われると、辛い。
諦め。
決まって居た事。
宗一に心奪われた日から、時一の人生は決まって居た。
宗一が和臣の為に生きる様に、自分は宗一の為に生きる。
宗一の為に、宗一の望む侭、生きる。此れが自分の人生なのだと、反発する事も、道も曲げる事もしない。
「判ったよ。」
手摺りから手を離し、宗一の顔を見る。
「俺は、宗一の物だから、好きにして良いよ。」
初めて会った其の日から、決して崩れる事の無い絶対的な関係。
「へぇ、嬉しい。」
笑った宗一の顔。其れに、懐かしさを覚えた。
初めて会った日に見せた、在の顔。
自分は此の顔に絆されて居るのだなと、時一は笑った。
僕は貴方の為に生き、貴方の糸で動くマリオネツト。
さあ如何ぞ。御好きに動かして。
其れが、僕の喜び。
貴方の血と為り肉と為り、貴方を喜ばす事が出来ませう。
貴方が生きてゐる限り、僕は生きてゐる。
貴方が死んだ時、僕も死ぬ。
僕に向けられる糸(笑顔)が切れる其の日迄、僕は貴方に、操られませう。
ゑゝ、存分に。
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