帰国命令


擦れ違ったのに声も掛けて貰え無かった。余程忙しいで居るのだろうと特に気にも止めず、扉を開いた。そうして目に飛び込んだ時一に、ハンスは顔を顰めた。放心し、抜け殻の様に此方を見て居る。
「おい。」
返事は無い。
「トキイツ。」
顔を覗き込み、前で手を振る。
「如何した。」
「あ…。」
聞こえた独逸語。嗚呼、自分は此処何だと漸く気付き、首を振った。
「ハンスか。何…?」
痛々しく笑う時一。擦れ違った宗一と云い、二人の様子は明らかにおかしかった。
「喧嘩でもしたのか?」
「まさか…」
喧嘩であれば、どれ程良いか。
笑う時一に息を吐いた。横に座り、映らない左目を見た。頬に触れる手に委ねる様に目を瞑って居る。
「ねぇ、ハンス…」
「ん?」
瞼を触り、優しい声を出す。
「俺が居なくなったら、如何する…?」
其の言葉に手が止まる。
「…寂しい。」
「そう。」
時一は薄く笑い、目を開けた。
黒い瞳、其れに自分の顔が映る。
「行き成り、如何した?」
動く口。出た言葉に、ハンスは嘘だと思いたかった。
「日本に…帰る…?」
云い聞かせる様に、自分の口を動かし、聞いた言葉を出す。云って何かが変わる訳でも、納得する訳でも無いのに、何故云うのだろう。始めから、判っていた事のに。
「………うん。」
低く無い、変声前の様な、其の愛らしい声。
思い出す姿。
血も駄目だった時一。其れが、何時の間にか、こんなに大きく為ってしまった。
嬉しい反面、寂しい。
「そっか。」
笑い、顔を逸らすハンス。
来る時が来た。自分は其れを笑って見送るだけ。
そう、唯の医者と軍人の関係なら。
逸らした顔の向こうで、時一の目が揺らぐ。
「ハンス…」
伸ばした手を肩に乗せ、独り言の様云った。
「此処に、居たいよ…」
其の曖昧な声色は、ハンスの心を揺らした。きつく抱き締め、頭を撫でては息を吐き、息を吐いては頭を撫でた。
「居れる、訳が無い…」
敵国と為った日本人の時一が、此れ以上此処に居る事は不可能。幾ら軍に貢献し様が、何時かは下される排除命令。其れを止める事等、自分には出来ない。此の手で、何時かは殺す。其の時が来る。
来る。そう、来る。
だったら、逸そ。
離した腕は、無意識に伸びた。
「ハンス…?」
抵抗もせず、黒い其の眼はハンスを見て居た。唯ゝ、見詰めて居た。
「ハン、ス…」
拙い、息切れ切れの言葉。
何故。
何故なんだ。
「何故、抵抗しないんだ…」
動脈を締められる苦しさが判らない訳では無い。其れなのに、何故。
首を締める湿ったハンスの手が、きつく、強く為る。
望んで居た。
もっと早く、こう為る事を。
自分は、生きて居てはいけない。始めから知って居た。
誰が望もうか。
「生きている事等…」
就いて出た言葉。ハンスの目が一瞬開き、陰を落とした。
「抵抗、して呉れ…」
懇願した。一寸でも良い、抵抗を見せて呉れさえすれば、手を離す。そんなハンスの思いは届かず、人形の様に口を開け、怪しく動く眼球を見せた。
「殺して呉れ…、ハンス…。頼む…」
此の侭、此の地で死ねるのなら本望。
息の様な声と出る涙。
在の時、何故抵抗したのだろう。自分はもっと昔、命断たれる身だった。馬鹿な幼い自分は抵抗し、そうして左顔半分を無くした。
「コロして、クダさい…」
ハンスのブロンドに重なる、長い、亜麻色の髪。
「フジン…」
震える口から出た日本語。
「ゴメンナさい、フジン…」
誰が助けて呉れ様。
姉も、宗一も、誰も居ない此処で、微かな望みも持たず生きる位なら。
見える青さ。
「泣かないで、ハンス…」
口を閉じる前に、目を閉じた。震えていた口が微動もせず、ぽっかりと開いた。
「トキ、イツ…?」
胸部さえ動かず、時一が息をして居ない事にハンスは気付いた。瞬間、手から血の気が無くなり、離すと重力に身体は従った。ソファに沈み、呆気無く頭から床に落ちた。
壊れた天秤、もう片方は、無残に落ちました―――。




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