日記帳
母の部屋を久し振りに覗いた。此の部屋は一体何年振りだろうか。人が出入りをせず、掃除もされない、鍵が掛かっている訳でもないのに誰も開ける事は無く閉ざされた此の部屋は、母が死んだ在の日から、全く何も変わりは無い。私は母を思い出す様に、其の埃と黴臭いベッドに身を倒した。目を閉じ、母が亡くなってから今日迄の事を思い出した。
いや、正確には、頭が勝手に映像を流し、私に其れを見せていた。
目を閉じているからいけないのだと、私は、私の世界から戻った。うっすらと目を開けると見慣れない物を机に見付け、私は其れに手を伸ばした。埃被った其れは、色褪せた日記帳だった。幸い、其れに鍵は見当たら無かったので中を覗いた。
寝転がった侭頁を捲り、日付を見て驚いた。
此れは私が生まれるずっと以前の、そう、母と父が未だ結婚する前の物だった。何故行き成りこんな物が机の上に現れたのか理解出来ず、一度身体を起こした。誰かが入ったのかとも思ったが、此れが入っているであろう場所は、真白な埃を積もらせていた。怪訝に思ったが、まあ良いか、あるからあるのか、と楽天的に考え、再びベッドに横になり頁を捲り始めた。一頁一頁、ゆっくりと視線を動かしてゆく。今日は父と如何した、何をした。此の日記は如何やら、大半が父との恋愛模様を記している。そうして私は笑い乍ら見て居たが、或る日付で、手が止まった。
御父様の判らず屋。
たった其れだけ書いてあった。たった一行、一枚の頁に書いてあった。前日の頁を見たが其処に父の事は載っておらず、“御兄様は御馬鹿さん。何か酷く可哀相な人に思えてくる。カアイソカアイソ。わはは”、そう書いてあったので、私は一瞬、自分の日記を読んでいるのではないかと錯覚した。日記を付けた事等、生まれて此の方一度も無いのだが。思わず笑ってしまったが、父の名前が載っている頁迄戻した。けれど、矢張り一日一日じっくり丁寧に読んだ。此の日記は、父との出来事と同じ様に、“御兄様”に対する恨み辛みも書いてある。可哀相可哀相、の前日の頁には“御兄様、私の羊羹、返してよ”そう書いてあった。今迄気が付かなかったのだが、若しかすると母は、感情を表に出さないだけで、物凄く茶目っ気のある人だったのではないか。そう思えて仕様が無い。其れを知らないのは、凄く残念な気がした。
父の名前が載っていたのは、一週間前の頁だった。其の頁には、こう書かれていた。
逢いたい。
在の方に逢いたい。
たった其れだけを、御父様は認めてくれない。
貴方は今、何をしていらっしゃるのかしら。
私は頁を戻し、判らず屋、から次の日に目を遣る。見て、顔が歪んだ。
こんなに愛しいのに、如何して一緒になれないのでしょうね。
大嫌い。
こんな家等大嫌い。
御父様何か、大嫌い。
感情を、特に怒りを見せない母から出た、大嫌い、と云う言葉に唯々驚いた。会った事は無いけれど、大嫌いと云われた祖父が、何故か憎たらしく感じた。
母の感情か私の感情か。其れは、何方かは判らない。唯此の、大嫌いな判らず屋の御父様、が憎たらしかった。
私は頁を進め、其の一ヶ月後、日記はぱたりと、半端な処で終わっていた。頁が無くなった訳では無い。以降全くの白紙なのだ。其れを見た瞬間、私は異様な睡魔に襲われ、目を閉じた。
*****
何時も閉まっている筈の部屋のドアーが微かに開いている。木島は首を傾げ、隙間から中を覗いた。
見えた足に心臓が鳴る。
「時、子…。」
音無く押し開き、違う事を知る。当然なのだが、落胆した自分が居た。寝ている姿は、見間違える程、本当に似ていた。
「時恵。」
肩を揺すり起こすが起きる気配は無く、呆れの溜息を漏らした時抱えていた其れが目に止まった。
「仕様の無い。」
息を吐き、隣の部屋から薄い掛け布団を持ち出し、時恵に掛けた。ベッドに腰掛け、顔を覗く。
幼い頃はこうして、何時迄も顔を見ていた。頬を突くと擽ったそうに無意識に笑う、つい此の間だった筈なのにと木島は小さく笑い、紫煙を上げた。
「御前は今、幸せか、時恵。」
頭を撫で、返事の無い問いを掛ける。
「子供の御前に迄、儂等の様な人生を歩ませたく無かった。だから、在の男を……。」
木島は言葉を止め、首を振った。
「身分違いの恋、か。ふ。」
腰を上げ、日記帳を手に持つと部屋を後にした。
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