出国
一体、どれ位船に揺られているだろう。二晩寝たのは覚えている。其れから、だ。
全く記憶が無い。今日は何日で、何曜日だ。寧ろ此処は何処だ。
見渡す限りの海、海、海。香るのは潮。こうも同じ匂いと景色だと、気分も悪くなる。
早く着く事を願い、空を見上げた。
「あれ。」
無人と思っていたのに、後ろから声が聞こえ、時一は顔を向けた。
「やっぱり。」
楽しそうな笑みを口元に浮かべ、笑う男。男は自分を知っている様だが、時一には判らない。判るのだろうが、思い出せない。かと云って思い出す努力も、こんな気分だとしたくない。
時一は無表情で男を見詰め、上がる紫煙を感じた。
「横、良いか。」
良いも悪いも、初めから横に来る積もりの癖に、と時一は黒い海を見た。
「無視、か。」
鼻で笑う男。
「…済みません。」
別に無視している積もりは無い。唯誰か判らないだけ。
ちろりと男を見る。
此の海の様に黒い眼、波の様に揺れる髪、煙草を咥えた口は、笑っている。何処かで見た事あるのに、何処でか、誰か、後少しの処で思い出せない。
「独逸、行くんだって。」
「ええ。」
何で其処迄知っているんだろうと、気味悪くさえ思う。
「貴方は。」
行き先序でに、名前も云ってくれないかなと、念を送った。しかし、通じはしなかった。
「英吉利。」
「英吉利。何で又。」
「さあ、坊やの兄君に聞いてよ。」
「宗一さん、ですか。」
「ちげぇよ。」
笑い、海に煙草を落とす男。其処で漸く誰か判った。通りで見た事ある筈だ。其れでも名前を思い出せなかったのは、一度も会話をした事も、面と向かった事も無いから。
互いに存在だけ知っている存在。
「嗚呼、貴方井上さんですか。」
時一の言葉に、拓也は頷き、呆れ顔を逸らした。
「そうすると、俺が誰か判らないで話してたって訳か。」
「済みません。」
「いや、良いのよ。別に。唯。」
顔を近付け、腰を引く。宗一に見られたら、何と思われるか。そう思い拓也を離そうとするが、力は強く、離れなかった。巣窟の様な漆黒の其の目に、抵抗出来なかった。
「誰かも知らねぇで話してたら、食われるよ。」
煙草の匂いと漆黒の目が、荒波みたく時一を飲み込んだ。
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