白
風が心地好い。海が近い所為か、潮の匂いを感じる。近いと云っても此の目には映らないのだが、其れでも香るのは、矢張り、風が強いからだと時一は思う。
窓の下からした声。其れに視線を遣ると、ハンスと宗一が立って居た。
「一寸降りて来て。」
「気分転換しよや。」
訛る宗一の言葉に、時一は笑った。
「受け止めて下さいね。」
「嗚呼、飛んできぃ。」
棧に足を掛け、一気に飛び降りる。腕を伸ばし、落ちて来た時一を抱き締めた。其れに驚いたのはハンスだった。
「何てこった…、二階から飛び降りるなんて…」
怖くは無いのかと云う問いに、首を振る。
「信じて居ますから。」
絶対受け止めて呉れると。其れに答える様に、宗一は薄く笑う。
「気分転換とは?」
宗一から離れ、時一は聞く。
「一寸遊ぼうかなて。」
「遊ぶ?」
歪んだ口元。其れに顔が引き攣る。
「血の気の多い俺達と、…遊ぼうか。」
ハンスも又笑い、腕を引いた。そうして訳の判らない侭車に乗せられた。無言で走る車に揺られ乍ら、如何為るのだろうかと、不安が襲う。
見えた景色。山に囲まれた其処に、宗一は楽しそうに口元を歪め、立ち上がった。
独逸陸軍基地だ。
「よう、カルトッフェル野郎、遊びに来たったでっ」
「日本人は御呼びじゃねぇよっ」
「来るなら女も連れて来いやっ」
「エルトアプフェルって?」
入り口に屯して居た集団は、宗一に煽られるや否や一斉に立ち上がり、血を沸き立たせた。
カルトッフェルと云うのは、じゃが芋の事である。芋ばかり食う独逸人を皮肉り、そして芋臭いと云う意味も込めて居る。エルトアプフェルと云うのはじゃが芋の別称で、大地の林檎。女を連れて来いと云ったので、女を林檎、罪の果実に置き換えた、何とも宗一らしい皮肉である。
其の集団の前を通るや否や、宗一は走行する車から飛び降りた。
「カミカゼ、参上。」
「抜かせ、白米野郎っ」
「今日もひょろひょろと長いですねぇっ」
瞬間飛んで来た男の拳を顔面擦れ擦れで交わし、腕を掴んだ。
「今日は、うちや無いで?」
急ブレーキを掛け、斜めに止まる車。スピンした所為で砂埃が濛々と舞う。
「一寸…、危ないじゃないですか…」
シートにしがみ付き、噎せる時一。笑ったハンスに首を掴まれ、乱暴に外に放り出された。
「何で投げ…」
云って引き攣った。楽しそうに笑う男達が、自分を見下ろして居たから。
「ご、御機嫌麗しゅう…」
「麗しく。」
はは、と乾いた笑いをする時一の顔面に、行き成り拳が飛んで来た。砂埃が見えて居た視界は瞬間火花しか見えなく為り、吹っ飛んだ。
何が気分転換だ。
血の気の多い連中の相手、其れは喧嘩を指した。こんなの転換でも何でも無い。
「痛いっ、歯が折れるじゃないですかっ」
喚いてみたが相手を高揚させる結果、然し宗一は、行き成り殴られたにも拘らず折れなかったのかと、時一の顎の強さに驚いた。
「折れたら先生に診て貰え。」
「俺、歯科医じゃないんだけど。外科医。」
云って又拳が飛んで来る。又在の痛い思いをするのか…、咄嗟に身を屈め交わした時一の頭上を拳が流れる。勢い付いた腕は自分では如何する事も出来ず、拳が飛んで来るからと云って時一の様に避けはしない。其の侭見事、岩壁に減り込んだ。
「あ、が…」
「痛そう。」
「先生、出番じゃないのか?」
「だから俺は外科医…、骨折は知らない。」
岩壁からゆっくりと手を離した男は、骨折したであろう手を握ると、血走った目を時一に向けた。
「絶対許さん…」
「済みません…、済みません…っ」
怒りで顔を赤くする男とは反対に時一の顔は白く為り、座り込んだ侭後退した。背中に当たるハンスの足、横にはにんまりと笑う宗一が居た。
「時間は三分。仲間の敵を取れよ。…Gehen Sie!」
「嘘だろう…?」
喧嘩等した事の無い時一は、交わすだけで精一杯。在の痛い思いをする位なら、三分逃げ回った方が良い。そう考え、卑怯だが、逃げ回った。
「鬼ごっこしてる訳じゃねぇんだよ、殴って来いっ」
「人何て殴った事ありませんっ、勘弁して下さいよぉ…」
肩を掴まれ、殴られると思った瞬間、時一は腕を伸ばし、強烈なアッパーを食らわせた。顎の骨が良い音を出す。嫌な予感がする。
男は突っ立った侭顔をハンスの方に向け、声が出ないと手を動かした。
「何、如何した?」
「あほ…」
「何?阿呆?上官に向かって阿呆だと?死にたいのか?」
違うと首を振る男を見た宗一は、男の状況を理解し、声を出して笑った。
「外れたか。」
頷く男に宗一は近付き、顎の外れ位なら治せるともう一度顎を鳴らした。顎が動くのを確認した男は息を吐き、追い詰めれた兎みたく怯える時一を見た。
「見掛けに依らず馬鹿力…」
「済みません、済みません…」
日本人渾身の謝罪、土下座で謝る時一。一層小さく為る姿に男は笑い、時一の髪を掴んで立たせた。
「俺が喧嘩の仕方教えて遣るよ。御前は、強く為る。」
其れに首を振る時一。
「い…、いいえっ、結構ですっ。僕は医者に為る訳で、軍人に為る訳では…」
「人の顎外して於いて、其れはねぇだろう。え?」
拒否権は無い。其れを知り、強く為るとは何と大変な事か…、時一は泣き乍ら笑った。
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