白
細い針に、髪の毛の様に細い糸。其れが並べられた机を見た。其の横には、何かの生物の液体浸けの皮膚がある。原型が無いだけ未だましだが、気持悪かった。
「あの、此れを…」
「教えるから、縫合してみ。」
云う宗一に時一は俯き、黙った。
宗一は簡単に縫合しろと云ったけれど、縫い針さえ持った事が無いのに如何しろと云うのか。
パチリと手袋の嵌まる音が聞こえる。馴染ませる様に数回手を開閉させ、顔だけで嵌める様伝える。渋々嵌め、宗一を見上げた。
「身体で覚えるんだ。頭じゃない。」
云って台に皮膚を置いた。滑らかに皮膚を割るメス。真新しいのか、微かだが血が滲む。其れだけで、時一は眩暈を知る。細い針が、皮膚を貫き、薄く糸が伸びる。瞬きをしたら、其処で終わって仕舞いそうな程、手際良く鮮やかだ。
糸を切り、縫い目を触る。
時間にして五分無い。宗一だから早いのか、浅いから早いのか、時一には判らない。縫合された目を見、息が漏れた。
真っ直ぐな直線は歪み無く、滑らか。
出来る訳無い。
時一は首を振り、自分に出来ない事を伝えたが宗一の厳しい顔には勝てない。やけくそにメスを掴み、息を吐いた。
「如何為っても、知りませんよ。」
「構うもんか。如何せ練習だ。」
燻らせる煙草を、床に落とした。
「俺だって、初めからこんな完璧じゃなかった。先生の傍で毎日毎日して、こう為ったんだ。さて、始め様か、時一君。」
上がる紫煙を合図に、時一は縫合を始めた。
何て折れそうな針、此の右目だけでは巧く糸が見えない。唯でさえ、長年の読書習慣の所為で視力は良いと云えないのに…。
心の中で吐き乍ら、腕を動かす。ぶつりと硬い塊に当たり、其れが何かも判らず針を貫通させ様とした時、ぽっきりと其の細い針は折れた。
「あ…」
時一の声に宗一は首を振り、息を吐いた。
「誰が針を折れと云った。」
「済みません。」
折れる等予想して居なかった。普通なら無理矢理貫通等させはしなない。折れた針を見、深く息を吐いた。
「予備は無いんだよ。」
「済みません。」
「もう良い。」
折れた針を捨て、中途半端に縫合された皮膚も、同じ様にゴミ箱に捨てた。鈍い音が、時一の身体を酷く抉る。
「明日ハンスに新しいのを持って来て貰うよ。」
「済みません…」
自分が何と云っても、済みません、其の一言しか云わない時一に、宗一は頭を掻いた。
「何も怒っている訳じゃない。」
「済みません。」
又其の言葉。こうも繰り返されると、流石に腹が立って来る。
「謝るしか能が無いのか。」
「…す。」
出る前に、時一の頬が叩かれた。
「謝る前に、何故こう為ったかを、考えないのか。」
叩かれた頬を触り、時一は唇を噛んだ。
「其れは、其の…。何か、塊があって…」
無言で見る宗一。
「無理矢理、貫通、させ…、こう、為りました。」
「生きている人間にも、御前は同じ事をするのか。」
「いえ、其れは…」
頬が痛い。生きている人間だったら、誰もしない。
「如何為っても構わんと云ったが、命を粗末にしろとは云っていない。」
宗一にして見れば、がたがたのとても縫合とは云い難い結果になるだろうとは予想していた。針が折れたのも、痛手だが、此れで時一が覚えるのなら構わない。人間に対しても同じ事をする、其れが宗一には許せなかった。
「良いか、此れから先、今の様な状況に為ったら、一度手を止めろ。そしてカルテを見ろ。其れでも判らなかったら、人に聞け。」
手術をするのは、決して御前一人だけでは無い。執刀医の傍には必ず内科医が居る、看護士が居る、困れば必ず助けて呉れる誰かが居る。宗一は其れを時一に教えたかった。
「命って云うのは、其の一つの命を守る為に、沢山の命が必要に為る。共存共鳴、与えて、与えられる。動物だってそうだろう?自分一人の考えで、如何こう出来る代物じゃないんだよ。」
其れは人生に於いても全く同じ。
時一が抱える悩みに気付いた宗一は、御前は決して一人じゃない、其れを時一に気付かせ様とした。
「御前は、医者に為る為だけに独逸に来た訳じゃ無いだろう?」
日本を発つ前、時恵に云った言葉を思い出せと宗一は云う。
「成長するんだろう?人として。」
其の為に日本を離れた。
医者に為る事ばかりに囚われて居た時一は、其の目標が余りに大き過ぎると知ると、自分を見失い始めて居た。
「一人で全部抱え込まんと、うちに話しな。」
其の言葉に時一は顔を上げた。
「煩わしく、ありませんか…?」
「何で?」
「だって…」
対等に為ろうと思えば思う程宗一の存在は遠く、大きかった。昔みたく一時の甘えで宗一を縛り付ける事は出来ない、宗一に頼らず生きてゆく、そう思って居た。そうする事で、強く為れると信じて居た。
「人に甘えるって、大事やで。」
甘え過ぎるのは問題だがなと、笑う。
「命あるものは決して一人じゃ生きられない。どんなに虚勢を張って、孤独を抱え込んでも、決して前には進めない。何処かで必ず、ぶっ壊れる。」
時一に云う言葉、其れは何処かで、和臣に届けたい言葉であった。
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