Sweet Nothings


風邪は治っていたが用心の為二三日は外出を控える様医者から云われ、暇を持て余す琥珀は絵を描いていた。筆の音に紛れ、馬車の音が聞こえる。珍しく馬車で帰って来たのかと時計に目を遣ったが其の時間迄は随分と時間がある。此の坂の上にある家は、此処しかない。途中で止まるのだろうかと耳を澄ませたが、止まる気配処か馬の足が一層力強く鳴った。そうなると必然的に此の家に来る。馬車を使って態々御苦労な、と筆を置いた。
案の定馬車は家の前で止まり、耳に神経を集中させた。
「…愛子…?」
彼女は少しオマセさんで、通常の革靴より踵の高い物を好んで履いている。其の踵に埋め込まれている金属の音がし琥珀は疑問を持った。確かに来るとは二日前会った時に云った。けれど彼女は馬車を使って来た事は一度も無い。一体何だ、と思った矢先、心臓がきつく締まった。ごつりと、木の音が聞こえた。間違える筈も無い其の足音に息が詰まり、慌てて鏡を見た。
「嗚呼、しまったっ。手が汚いっ。」
普段は肌が荒れるという理由で塗料落としの液体は使わないのだがそんな事は云っていられ無かった。原液の侭皮膚が赤くなる迄擦り、何とか見れる所迄落とした。其の後軟膏を塗りたくり、汚いスモックを脱ぎ捨てた。其れを見ていたかの様に、門が叩かれた。
「琥珀ー。愛子だよー。凄い人が居るのー。」
ええ判っていますとも、と琥珀は髪を梳き、深く息を吐くと玄関を開けた。ぽてぽてと歩き、門に触れた。
「合言葉ー。」
門を挟んだ向こう側に、居る。琥珀と、馨の心臓は痛い程鳴った。久し振りに聞く琥珀の声に馨は息を吸った。
「轟け轟け。」
「漆黒の軍艦。」
「世界最強。」
「ロイヤルネイビー。」
何と云う合言葉であろうか。馨は頭を抱えた。せめて其処は帝國海軍として欲しかった。
「おお、本物の愛子だ。会いたかったぞ、我が友人。二日振り。」
「何だ、元気そうじゃん。二日振り。」
門を開け、出た琥珀の姿に愛子は詰まらなそうな顔をし、ハグをし終わるとちろりと馨を見た。
面白い。白き修羅が乙女の様な顔をし立っている。直視出来ないのか少し顔を逸らしている。愛子は其れが楽しく、琥珀に目を遣ると矢張り同じ様な目で馨を見ていた。
「帰るね。」
「うん。…え?今来たのに?」
「だって中尉居ないんでしょう?」
「そら未だ居ないけど、二時間したら帰って来るよ。待ってなよ、寂しいじゃないか此の野郎。」
「嫌。だってね琥珀さん、あたくし、毎週火曜日は御稽古事が御座いますのよぅ。」
「じゃ何で来たのよ。」
「琥珀の顔を見に。一日一回其の濃厚な顔を見ないと気が済まないのよねぇ。」
「昨日来なかった癖に。」
「昨日雨だったじゃん。其処迄して見たくは無いよ。」
きっぱりと愛子は云い、目的は済んだから帰る、明日は来いよ、と初夏の風の様に颯爽と帰って行った。本当に御前は何をしに来たんだと坂を下る愛子を見、頭が見え無くなると馨に向いた。
「今日は。加納さん。」
「えっ?あ、はい。御機嫌よう…」
俯く馨に琥珀はしゃがみ、下から馨の顔を覗いた。一ヶ月振りに会う所為か本当にまともに顔が見れない。愛子の忠告も忘れ、馨はずっと琥珀を見ていたいと思った。
此れが、此の恋が、今迄の様に消えても良い。消える前に、此の身体に頭に、琥珀を全て焼き付けるからと、泣きそうな顔で馨は笑った。


犬の様な其の大きな目。其れに映る自分。風は吹いているのに、全く音を感じなかった。
聞こえたのは


「会いたかった。」


其の、Sweet Nothings.




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