萌える業火


彼女はワタクシを見ず、床を見て居た。やがて梅雨に入ろうとする湿気帯びた空気は容易く軍服の下を湿らせた。彼女の口から聞く迄は信用しないと決め、然し聞かなければ良かったと後悔した。
「本当、なの、ですね…」
身体から力が嫌でも抜け、放心した。投げ出された人形の様に唯だらりと座り、揺れ霞む視界に疑問は無かった。
「時恵様……」
「泣かないで…」
「泣いて等、おりません。」
少し動揺して居るだけと彼女に云っては見たが、頬に知る感触は紛れも無く涙だった。止め様と必死に瞬きを繰り返し、此れが逆効果とは知らなかった。顎を伝い、喉元に流れ、不快で襟を外した。其れが引き金の様に熱く短い息を繰り返し、胸倉を鷲掴み身を屈めた。
「嘘だ…」
身を屈めた振動で眼鏡は絨毯に落ち、気付いた彼女はしゃがんで拾った。折った足を斜めに向け、其の動きは時恵様と酷似して居た。
何時から、こんな洗練された姿になったのであろうか、彼女は。少女の若さしか知らないワタクシは、手放した其の艶を知った。
「泣かないで…」
差し出す両手。真赤に色付き、右薬指の塗料は歪に剥がれて居た。其処だけ不自然に短く、ワタクシはとある記事を思い出した。
――昔からの癖なの。悲しい事が起こるとね、此処の爪を噛む癖が出るの。そして、其の出来事を消す様に、噛んだ爪を口から飛ばすの。何処かに向かって。
何故今思い出したか判らない。其処の爪以外は長く伸び、先が少し剥がれて居るだけであるのに、其の爪の短かさと塗料の無理矢理に剥がれた跡は、時恵様の死を嫌でもワタクシに現実だと教えた。
「あたしは辛い。でも貴方はもっと辛い。」
消える様な声に顔を上げた。真直ぐにワタクシを見詰める黒い眼が、辛い。
「貴方は本当に、時恵を愛してた。なのに、其れを伝える事が出来無かった。だって時恵は、龍太郎を愛してたから。貴方は、あたしに愛されてしまったから。そして貴方は重ねたんだよね、時恵の愛らしさと、あたしの子供と云うの愛らしさを。」
知ってたよ、と彼女は笑う。誰にも話した事の無い、無理矢理風化させた感情。けれどワタクシは確かに、消した思いを何処かに色濃く残した侭時恵様を愛して居た。彼女が其の昔、初恋を風化させた様に、ワタクシも初恋を風化させて居た。
「初恋は、実りませんね…」
「知ってる。」
だから互いに、決して消える事の無い“愛”を求め合い、そして知った。恋はこんなに消せてしまうのに、何故に愛は、消えないのであろう。
「琥珀…」
「何…?」
全く変わりを見せない彼女の目元を触り、強く頬を摘んだ時、椅子から落ちた。此れが、背徳に堕ちる一歩だった。
「愛しておりますよ…」
「云わないで…」
強く瞑られた彼女の目は震え、指先に涙を教えた。
「何故又…」
彼女の姿等、スクリーンの中で充分だった。現実にこうして、手に触れてしまえば、彼女を愛した全てを思い出す。彼女への復讐を思い出す。限りない愛情は愛惜と変わり、其れが間違いである事に今更気付いた。
唯の憎しみであれば良かった。愛等、彼女がワタクシを捨てた様に捨ててしまえば良かった。裏返った愛情が、櫻。愛情を色濃くこびり付かせた憎しみ。
「御免為さい…」
ワタクシは泣いて居た。
「本当に、愛して居た…。琥珀…」
在の時の事を何故謝るのか、屹度其れで、彼女への愛を消そとして居た。
「云わないでよ…」
ワタクシ達の愛が、初恋であればどれ程良かったか。決して実らない恋であれば、又出会っても笑って居られた。
ワタクシ達は惹かれ合い過ぎて居る。
幾ら海を挟もうが、憎しみを増そうが、其処に愛があるのがいけなかった。
湿った空気が火を燃やす。忽ちに業火となり、ワタクシ達を囲む。炎の先がワタクシの心底を撫で、揺さぶり、炎に口付けた。唇に移った色香に、彼女の目は揺れた。
業火の揺れと色の前には倫理等関係無く、目を背け、背徳の奥にある愛を見据えた。




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