帝国の夏


読みたいのなら如何ぞと、彼から本を借りた。そんなに親しい訳では無い、昼食時に大使館に邪魔した私は「日本の夏は死ぬ程暑い」「食欲も失せる」とジャケットもタイも無い姿でソファに寝転ぶ彼を見た。秘書から団扇で扇がれ、前髪は揺れて居た。胸の上には読み終った本が置かれ、目に止まった私は題名を見た。“Alice's Adventures in Wonderland”そうあった。
「L・キャロルですか。」
「そうです。」
私と大して年齢の変わらない彼が、何故児童文学を読んで居るのか気味悪かった。哲学書を読まれて居ても気味悪いのだが。
兎に角私は不思議で堪らず、指した。
「良いよ、はい。」
私は“何故そんな物を読んでるの?”と云う意味で本を指したのだが、彼は何を如何解釈したのか、“見せて”或いは“貸して”と捉えた。不思議な男である。
今更否定するのも煩わしく、受け取り、代わりにイヤリングを渡した。掌に乗せた彼は起き上がると、渋い顔で私を見た。
「何でイヤリング?」
「彼女の忘れ物です、昨日家に来ましたので。香苗が見付けました。」
「コハクのか。てっきり、そう云う御趣味なのかと。」
「いいえ違います、気持の悪い…」
彼は「直接本人に返せば良いのに」と、人の良さそうな笑顔を見せた。何も疑う事を知らない、青年と云うよりは少年に近い眩しい笑顔だった。彼のそんな笑顔は私の自尊心を殴り付けた。
「嫌です。」
「何で。別に良いですけど。」
「ヴォイディさん。」
「はい?」
ソファに座り、深く上体を下げた彼の腰からは、バキ、ボキ、と驚く程音が鳴った。そんなに鳴って良いのだろうかと、今度は腰を反らした彼を見た。
「………ん?」
笑顔で見られた。
「何か。」
「いや、何か、云いたかったんじゃ無いの。呼んだでしょう。」
「嗚呼。…いいえ、もう結構ですよ。」
彼の身体から聞こえた音に驚いた私は阿呆みたく突っ立ち、云う事を忘れて仕舞った。
とても下らない事。
彼にも、私にも。
私には妻が居る、彼にも妻が居る。其の彼の妻が、私と夫婦であった等、彼には興味無い。私も、興味無い。彼女は如何思って居るか知らないが。
彼は、頭の回転、或いは読心術が良いのかも知れない。私の顔を見、にやりと笑った、かと思えば鼻で笑われた。
「昔の女に会うには、覚悟が要る?」
彼は笑って居た。渡された童話に出て来る猫みたく、笑って居た。
彼女はアリス―――ならば私はなあに?
自問した。
「いいえ…?」
努めて、涼しい顔を向けた。けれど、口端は嫌と云う程引き攣る。
「そうなの。俺は駄目だな。無理。」
彼は項垂れ、頭を掻いた。
「度胸が違うのかな。」
「度胸?」
「そ、度胸。浮気の度胸。」
澄んだ海の様な目に、息が詰まる。彼は気付いて居るのか、其の目は咎めて居る様だった。
「昔の女に会うとか、無理だって。一ヶ月しか付き合って無くてもね。」
深読みしたのは、私だけ。彼は素直に自分の事しか云って居なかった。
「浮気するにも神経使うよね。」
同意を求める声に、彼の秘書と同僚は笑って居た。
「確かに。」
秘書が云う。
「俺は普通の女だけど、マットは違うからね。神経も使う。」
「そうそう。コハク・ヴォイド様。」
引き付けを起こした様な笑い声を受けた彼は失笑し、煙草を咥えた。
「自分はスクリーンの中で毎回浮気する癖にね。俺は駄目だって。」
笑いを誘った。
スクリーンの中、果たしてそうか。だって彼女は、カメラもスタイリストも無い場所で恋を演じて居る。相手は私で。
「俺は肉食だけどさ、偶には草も食べたいじゃん。」
「うちの猫、偶に食べる。」
「だろう?ほら。胃が凭れる。」
「御前、何肉?俺、ポーク。」
同僚は其の通りの巨大を揺らす。
「俺?勿論チキンさ。」
彼等は一斉に高笑い、んふ、んふ、と彼は煙を吐いた。英語が理解出来無い訳では無い、きちんと判って居る。彼は気が緩むと亜米利加訛りを出し、一層良く判った。
黙って居たのは、何とも云えなかったから。
彼女を馬鹿にして居るのか、そうで無いのかも判らない。彼が誰を笑って居るのかも判らない。
何も判らなかった。




*prev|1/3|next#
T-ss