帝国の夏


彼女に会ったのは翌日だった。日曜で、教会の帰り、寄ったのだ。四ツ谷にある白亜の豪邸で、家から既に貫禄を見せた。勿論、彼女の。一寸足を伸ばせば麹町、在の木島邸がある。
私は豪邸に似合いの門のベルを鳴らし、暫くすると嬉々とした声が通話口から響いた。
「何方様デスカー。」
幼児とも成人とも取れない声、昔の彼女の声に似て居た。
「加納と申します。ヴォイディ館長は御在宅で?」
「パパ?居ないデスヨー。」
ぶ、と相手の心情を表す様に回路は切れ、無駄足だったかと身体を離した。
軽度の地震が来たのかと錯覚した。がくんと地面は揺れ、圧巻覚える門が開いた。いやはや魂消た。
玄関先には黒い車体のロールスロイスが鎮座し、運転手が暇そうに洗車をして居た。運転手は私を一瞥しただけで車を愛でた。浴びせる水は玉と為り、つやつやと車体を滑る。夏の太陽を一身に、其の車体を発光させた。余りの滑らかさと輝き、溜息が漏れた。
「奇麗ですねぇ。」
「………はあ。如何も。」
運転手は無愛想で、私が車を褒めても反応は乏しい。運転手にとって車とは商売道具では無いのか、其れを褒められ「はあ、如何も」は無い。私で例えるなら軍艦を褒められる事、其の場合の私は、息も弾み興奮するのだが。運転手は仏頂面の侭、水を掛けて居た。
車の美しさに見蕩れ、ドアーが開いた事には気付かなかった。気付かせて呉れたのは、通話口から聞こえた声の主で「ママは居ますよー」と私の腕を引いた。すると如何だ、三匹の犬に襲われた。嫌いでは無い、けれど行き成りは驚く。不意を突かれた私は座り込み、子犬に顔中舐められ、洗礼を受けた。
「アンリ、離れ為さい。御痛は駄目よ。」
ベイビィブロンドの毛並みを持つ犬、階段から声がした。矢鱈耳が大きく、目はくりくりと大きく、私は何故か、マーシャルを思い出した。
「アンリ…?」
「ヘンリーよ。」
どっちだ、出掛った言葉を飲み込んだ。
ヘンリーだろうがアンリだろうが私には関係無く、子犬は素直に従った。
階段からゆっくりと、バスローブ姿の彼女は“レッドカーペット”を歩いて来る。頭にはタオルが巻かれており、階段を降り切る前に又云った。
「ヴィクトリア、下がり為さい。あたしが御相手するわ。」
「はぁい、ママ。」
娘も素直に従い、犬三匹引き連れ姿を消した。涎に濡れる顔を、彼女は頭に巻いて居たタオルで拭いて呉れた。
「痛いです…」
「香水なら未だしも、犬の匂い何て色気無いでしょう。」
花を目一杯詰め込んだ花籠みたいな匂いが、タオルからはした。同じ匂いが、彼女の髪からもした。顔を隠す前髪を彼女は払い、見詰められた。
随分と幼い顔で、娘とそう変わらない。きつく引かれるアイライン、殴られた様な発色見せるアイシャドゥ、烏の羽の様な睫毛、吊り上がる眉、全ての男が吸い付きたいと思う紅い口…、全てが無かった。彼女のパーツが、はっきりと主張して居た。
私はそう、一瞬にして時間を遡った。
化粧をして居ない彼女は、スクリーンで恋を演じるコハク・ヴォイドでは無かった。私の愛した、在の侭の、琥珀であった。
「何か用?」
あたしが貴方の家に行くのは良いけど、貴方があたしの家に来るのはルール違反。全く理解に苦しむ持論を、厚い唇動かし云った。
「ルール違反?」
「そう、ルール違反。」
持って居たグラスにぼってりと唇付け、中の液体を飲んだ。少し黄色味があり、気泡が行ったり来たりして居るのを見ると、此れはシャンパンと判る。
彼女は誤解して居た。自意識過剰も此処迄来れば甚だしい。
私は何も、彼女に会いに来た訳では無い。彼に、彼に用事があった。
自分に、強く、云い聞かせた。
「此れを、館長に。」
グラスに口付けた侭横目で其れを見、きちんと見た彼女は盛大に笑った。
「何よ、此れ。」
「本ですよ。」
「見れば判るわよ。馬鹿ね。」
勿論“何で在の人がこんな物を読んでるの”の、何よ此れ、である。私と同じ感想を持って居た。
「アリス、ねぇ。在の人、童話は嫌いなのに。ヴィクトリアかしら。」
其れで納得した。
彼が何故、児童文学を仕事の合間に読んで居たのか。娘と会話をしたい為。
私は一度でも、自分の娘と会話をし様と、共通の話題を探した事があるだろうか。ある筈は無い。
息子とはボトルシップ、娘とは童話、彼と私の決定的な違いを見せ付けられた。
初めて、敗北感を知った。
男として負けるのなら、まあ許せる。けれど、父親として負けたのは、許し難い事だった。私の娘も、彼女の娘であるのに、一方は天真爛漫に笑顔振り撒き彼女を彷彿とさせ、一方は陰湿で笑顔等皆無、彼女を彷彿させる物は何も持って居ない。
怒りと敗北感に身体は取り付かれ、上手く呼吸が出来無かった。
何が違う、私と彼は、一体何が違うって云うんだ―――。
同じに彼女の子供を愛して居るのに、何故こうも違うのか。
手は、収拾付かない頭を嗤う様に震えた。
「失礼。用は此れだけですので。」
彼女を見る事はしなかった。本当は凝視し、自分の娘と似て居る所、少しでも無いか探したい程だった。
「待って。」
掴まれた腕を振り払う事も出来た。でも、出来無かった。床を見詰めるだけで、本当は彼女を見たかった。
「何が、違うと云うのですか…」
立って居る事は最早出来ず、座り込んだ。彼女は狼狽し、けれど一人で私を立ち上がらせる事も出来ず、玄関を開けると相変わらず、未だ洗車をして居る運転手を呼んだ。運転手は面倒臭そうに私を寝室迄運び、彼女に礼を云われても「はあ、如何も」しか云わなかった。
「体調、悪いの?」
髪を撫でる彼女の手は心地好く、目を閉じた。
「いいえ。」
「そう、ゆっくり寝て居て。」
「五分したら、帰ります。」
「良いのよ、大丈夫。」
大丈夫、彼女は繰り返した。頭を撫でた。優しく、優しく繰り返す。
「琥珀…」
「何…?」
「櫻の事、愛してますか…?」
彼女は何も答え無かった。無心に、只管私の頭を撫でた。
「大丈夫、大丈夫よ。」
大丈夫、そう大丈夫。
彼女の意味する“大丈夫”は、「大丈夫よ、今度は。きちんと愛せる」。そう云う意味合いだった。




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