御眼鏡


海軍は、決まって陸軍を野蛮だと云うけれど、海軍も中々ではないかと琥珀は思う。
窓側の席に馨は席を決め、琥珀は向かい側に座った。道を歩く人間を見るのが、馨は好きなのだ。
「海軍さんは良く来ますけど、加納元帥がまさか来られるとは。」
注文を取る店員は少し頬を赤らめていた。
「来るも何も、知りませんでしたので。」
馨は何時も、此の店がある場所の反対側を通る。其の通りにも喫茶店があり、馨は其処に行っている。其の店は、将校達しか居ない。当然、喧嘩等無い。クラシック流れる其の店と、流行歌の流れる此の店。店でも、海軍の立場は決まっていた。
「私はミルクティを。彼女は…」
「珈琲下さい。いや、待て。ケーキ食べたいな。ケーキ下さい。」
品書きを見る琥珀の目は、宝石を見る様に輝いていた。
「今チーズケーキしかないですけど、良いですか?」
「えー…まあ良いです。」
琥珀の中でケーキと云えば、真白いクリームを蓄え其の中に愛らしく苺の乗るケーキだ。チーズケーキを食べた時、気持ち悪くなったのを覚えている。まったりとしたチーズの味が口に広がり、父親と揃って気持ち悪いと呟き一口で止めた。しかし、甘い物が食べたい琥珀は、其れでも良いかと其れを注文した。
「ミルクティとケーキですね。」
注文を繰り返した店員に馨は、珈琲も忘れずにと云った。
「良いの?」
「ええ、構いませんよ。」
氷の入った水を馨は一口飲み、氷を静かに鳴らした。からんと、良い音がする。
二人に会話は余り無く、馨は窓の外を見ていた。此の店の前の家に、柊が植えてある。赤い実は未だ無く、詰まらなそうな目を向けている。
琥珀は首を傾げた。何時迄経っても、日常的に目にする仕草を見ないのだ。
「加納さん、煙草飲まないの?」
其の声に馨は顔を柊から琥珀に向けた。
「在の様な代物、私は好みません。父は吸っていましたが。」
そうか、煙草を吸わない男も居るのかと、琥珀は少し驚いた。自分の知っている男は、全員煙草を吸っている。時恵も、煙草ではないが紫煙を燻らす。大人というものは、皆紫煙を纏うものだと思っていたが、違う場合もあるのだなと、少し勉強になった。
時恵の吸っているあれは、何と云うのだろう。英吉利で見るパイプとは違う。時恵の吸っている在れは、パイプ特有の甘い匂いが無い。かといって葉巻でも無い。馨に聞いたら判るかも知れないが、何と無く聞けなかった。
ことりとテーブルに皿が乗り、そうそうこんな感じだったと、来たケーキを琥珀は見た。乳白色の塊の下に、洒落たレースみたいな紙ナプキンが敷かれている。白い皿の淵は花達が遊んでいた。其れを暫く見、頭に記憶させた。
フォークも又洒落ており、銀で、薔薇が象ってあった。
「此のフォークキレー。」
ケーキの向こうに見える、湯気を立たせる馨のカップは青を基調とし、黄色の薔薇が描かれ、淵は金色だった。
「本当に綺麗ーっ」
「琥珀さんは、美的感覚が鋭いですね。」
普通なら、皿やフォーク、カップ等気にも止めない。馨は其れを云った。
「そうかな。だって食器って綺麗じゃない?折角食べるんだもん。目でも楽しみたいでしょう?」
孤児院の時、食卓に並ぶ食器は何の変哲も無い真白い皿だけだった。カップも白ければ、模様等一つも無かった。見る度、もっと綺麗なのを使えば良いのにと思った。不味い飯が一層不味くなりそうだ。
「其の感覚は、元からなのですか?」
「んー、如何かな。ダディが食器に拘ってるからかな。特にグラス。いーっつぱいあるよ。」
「グラス?」
「うん。ダディ御酒飲むからグラスに一層拘ってるの。其の御酒専用のグラス棚には触らせて貰えないの。割るから。一回其の棚に入ってるグラスを割った時ダディ泣いてた。折角英吉利から運んだのにって。ウェッジウッドのワイングラスだったかな。フランスの皿も割ったし、ポルトガルの食器も割った。此の侭行ったら、世界征服出来るんじゃないかな?」
馨は考えた。洗物でもしているのだろうかと。しかし、見た感じ何もしなさそうだ。手も白く滑らかで、とても洗物をしている手では無い。
「綺麗だとねぇ、つい手に取って見ちゃうんだよねぇ…割っちゃうんだよねぇ…高い物程。」
納得出来た。琥珀なら手を滑らせ割りそうだと。琥珀の手は、年齢もあるのだろうが、とても小さい。フォークを持ち、ケーキを切る其の手を、口に向かう前に馨は掴んだ。
「…食べる?」
「いえ、そういう訳では。」
其の小さい手の動きが余りにも愛らしく、つい掴んでしまった。何と細い手首をしているのだろうか。琥珀の父親も細いので、此れは遺伝なのだろうと考えた。
馨は、琥珀が孤児院に居た事等、知る訳は無かった。
そうなると、気になる事がある。“船に乗って来た”という在の台詞である。目は黒く、髪の色素は薄い。英吉利から来たとも云うし、そうか琥珀は混血なのかと馨は一人で納得した。
「目の色と細さは、井上中尉に似てらっしゃいますね。鼻は御母様譲りですか?」
馨の言葉に琥珀は少し首を傾げた。
「うん?うん。多分母親似。」
「多分?」
「母親の顔、余り覚えてないんだよね。何時も居なかったし。云われてみれば、鼻高かったかも。」
馨は困惑した。
何時も居なかった。しかし父親はずっと日本に居る。其れは知っている。母親の事は母親と呼び、父親の事はダディと呼ぶ。馨は此の時、母親の育児放棄に呆れた父親が、自分の居る日本に連れ戻したと考えていた。
馨は眼鏡を外し、目頭を摘んだ。テーブルに置かれた眼鏡。其れを琥珀はフォークを置き、手に取った。光に当て、楽しんでいる。
「眼鏡って綺麗。」
「掛けたら駄目ですよ。」
そう云ったのに、琥珀は言葉の前に自分の顔に掛けた。眼球に強烈な圧が係り、琥珀は目を強く瞑った。
「えー?何此れー。何も見えないー。」
眼鏡越しにぼやける馨の顔、眼鏡が無く琥珀の顔がぼやける馨。
「全く全く。」
優しい声が聞こえ、馨の手は眼鏡を取り、掛け直した。目を瞑った侭だったので、眼鏡を外した馨の顔は見えなかった。
「うえー、目が痛い。」
「ふふ。目が悪くなってしまいますよ。」
「目が悪いと其れを掛けるんだ。」
又一つ賢くなった。
「そうですよ。此れが無いと、遠くが見えません。近くも見えませんが。」
日に日に視力低下していく気がしてならない馨は自嘲した。持ち直したフォークをくるくると回し、琥珀は考えていた。
「ダディ、其れ掛けたら良いんじゃないの?」
「え?」
「だって其れ、遠くが良く見えるんでしょう?」
「はい。」
「ダディ何時も、遠くが見えねぇなぁ、綺麗なオネーチャンの尻は遠くても見えるんだけどなぁって云ってるもん。龍太郎が何時も、其れ危ないだろうって。何で危ないのかな。」
琥珀は、父親が銃を扱う事を知らない。馨は知っている。陸軍元帥に並ぶ銃の腕前だと噂で聞いた。
「あ、でも、ダディが掛けたら珍問屋だな。つくてんつくてん、つんつくてん。」
太鼓打ちの真似をした琥珀に、馨は紅茶を吹き出した。まさに其の通りだなと。




*prev|3/3|next#
T-ss