御眼鏡


ドアーに下がるカウベルの心地良い音色が響き、いらっしゃいましと云った店員は固まった。入口付近に座っていた男が行き成り立ち上がり、固まった顔で敬礼をしていた。
「かっ加納元帥殿っ」
男の声に馨は向き、嗚呼、と頷いた。
「…おやまあ。今日は休みでは無い筈ですが?」
「只今…戻ろうと…」
「言い訳は結構。貴方は水兵ですね。減俸です。」
ちろりとテーブルに置かれた帽子に目をやり、名前を確認した。男は慌てて隠したが、馨に名前は判った。瞬間、次々に男達が席を立ち、帽子を脇に挟んだ格好で敬礼をし、馨の横を通り過ぎた。
溜息と共にずれた眼鏡を上げた。
「全く全く…」
云い、一人の男の腕を引いた。
一人だけ違う軍服。
「貴方、上官ですね?」
「…はい…」
「何故上官の貴方が、水兵ごときと肩を並べているのですか。恥ずべき事です。恥を知り為さい。」
「以後…気を付けます…」
弟と茶を飲む事の何がいけないのか。男には理解出来無かったが、反論する力は無かった。
馨の姿に琥珀は目を丸くし、じっと馨の顔を見た。とても冷たく、口元に薄く浮かぶ笑みが怖いと感じた。
「加納さん。」
琥珀の声に男は琥珀を睨んだ。
「外人風情が加納元帥に加納さんとは何事か!」
男の声に琥珀の小さな身体がびくびくと揺れ、震える手で馨の軍服を掴んだ。人から、ましてや大人から怒鳴られた事の無い琥珀は酷く恐怖を感じ、其の姿は子犬其のものだ。
一層小さくなった琥珀の肩を優しく抱き、馨は男に溜息を向けた。
「目触りです。早く消え為さい。可哀相に、こんなに怯えて…」
「しかし加納元帥っ!」
カウベルの音が店中に響いた。
店員は視線を流すだけで、逃げ返った男達のカップを下げ、テーブルを拭いていた。軍港近くの此の店は、海軍同士の喧嘩に慣れていた。
慣れていないのは琥珀だ。小さく悲鳴を上げ、目を瞑った。
「私は、消え為さいと申しました。海軍の恥曝しが。」
琥珀の肩から離れた馨の手は、男の頭を掴み、壁に押し付けていた。振動でカウベルは鳴っている。思い切り鼻を打ち付け、男は鼻腔一杯に鉄の臭いを広がらせた。
「只今…戻っ…」
「彼女に対した暴言、外人風情とは。私から云わせれば、貴方こそ少尉風情です。」
壁から離れた男の鼻から血が垂れ、床に赤い染みを作る。其の丸い形は、釦に似ていた。白い手袋を赤くし、男はもう片方の手で敬礼をすると、消えた。溜息を吐く馨。物の見事に、店内が殺伐としている。つまり、海軍以外、此の店には居なかった。其の事実に、馨は首を振り、全く全く、そう云った。
「済みませんねぇ、毎度毎度。」
馨は盆を下げた店員にそう云った。
「気にしてたら、店が無くなります。さっきも喧嘩してましたし。」
「全く全く。」
呆れた吐息は馨に嫌な気持ちを宿らせた。




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