悪イ癖


其の夜は、不気味な程静かだった。風の音さえ聞こえない、時間も時間かと時計を見たら、未だ零時過ぎだった。
「静かだね。」
聞こえるのは、自分が流す万年筆の足音だけ、其れに自分の声を重ねた。
ソファに座る中将が、活字から俺に、視線を変えた。
「確かに。」
活字から俺に、俺から暗黒を映す窓に、ヘーゼルの目は流れる。
「普段なら、もっと賑やかじゃない?」
皮肉な俺の言葉に彼はくすんと笑い、確かに、そう云った。
普段なら、暴風で無い限り基地の庭或いは中で宴会があって居る。上司が作戦練ってる時に暢気な御身分と笑顔は消えるが、無いと無いで、不安に為った。
不思議と人間は、反発されると躍起に為る。嗚呼良いぞ、遊んでるが良いさと嫉妬し、長々と作戦を考える。
逆に、こうも静かだと、自然と万年筆の蓋が閉まった。
兵士曰く、俺の部屋の明かりが夜中に為っても消えないのに自分達だけ寝るのは申し訳無いじゃないか、でも暇、宴会に為る。
騒がれて居る方が失礼だよ。
本部基地の椅子程良品では無いが、まあまあに座り心地良い椅子に背中を預け、ゆっくりと窓を見た。
「静かだね、本当。」
静かであればある程、眠気は飛んだ。
此の不気味な無音は、嫌な記憶を再生する。静かな部屋、静かな廊下、決まって聞こえる、二時間に一度の足音、其の青い目を…。
完全に思い出す前に頭を固く振った。
「…海軍は何んな調子だい?」
「相変わらずで。」
「そうかい、傲慢かい、あのキラキラは。」
「はい、相変わらずの、キラキラです。増えてらっしゃいます。」
「順調だね。」
同時に喉奥で笑った。
「帰ろうかな、シャギィには帰らないって云ったけど。」
一週間程基地に居るからと四日前云ったが、よくよく考えたら明日…今日は日曜では無いか。基地に居る理由等無い。
活字から俺に流れた時の目は穏やかであったのに、窓から流れたとは随分と荒い。
「マーシャル、御止め下さい、あんな男を囲うのは。」
風さえ無い静かな空間だからこそ聞こえた声。
彼の気持は良く判る。俺が彼の立場でも同じ事を云うに違いない。此の非常事態に何を考えて居るんだと云う怒りと、元帥と云う威厳の為。其れと。
「結果的には問題無かった…。海軍に打撃は無いし、あれから五年は経った、もう忘れ様。彼はもう、ソビエトのスパイじゃない。」
彼がシャギィを良く思わないのは、シャギィ自体に問題がある。
突如海軍に現れた、経歴不詳のチーター。一瞬にして階級を登り詰め、ライオン(キース)の息遣いを間近に聞いた。ポストキース…チーターの爪はキング(ライオン)の背後に迫って居た。
普通に考えればおかしな事しか無い。
行き成り将校であったし、余りにも“ポストキース”が早過ぎる。不可解な点が多過ぎた…いや、不可解な点しか無かった。でも俺は陸軍で、海軍の事は良く判らないが、俺自身が相当な努力と計算で此処迄来た為、シャギィもそんな努力家なんだろうと勝手に解釈して居た。
実際は、違った。
事実を知った時、全ての不可解が何の問題も無い事であると笑いが出た。
露西亜海軍のスパイ、シャギィの正体はこんな簡単な事だった。
でも俺は、シャギィを嫌いになれ無かった、寧ろ愛して仕舞った。俺が触る事で、俺が微笑み掛ける事で、シャギィが人間に成るならと思った。でもやっぱりシャギィは、“猫”の侭だった。シャギィの中ではマスターが俺に変わっただけの話。
彼の不安は、俺が利用されて居るのでは無いか、実は未だスパイなのでは、と云う簡単な物。正体が正体なだけに疑う気も判らなく無いが、此の五年ずっと見て来たから判る、シャギィはマスターが居ないと指示が無いと何も出来ない、決して打算的な男では無いという事。
「心配する事無いさ、今のマスターは、俺だよ。」
だからすんなりシャギィは香港に付いて来た。俺が香港に移っても、マットの事は母さんやクラークが見てるから問題無い、キースは海、要するにシャギィの居場所が無かったので連れて来た。一人は寂しい、俺もシャギィも。
だから案外香港生活は楽しい、キースを英吉利に放置し、マットをこっちに呼ぶのも良いかななんて思って居る。
だってほら、キースのバックは凄いからさ、問題無い。キースの精神は問題抱えるかも知れないが。
誤解されない様付け加える、キースと別れたい訳では無い。英吉利の空気に辟易し、知った香港の空気は余りにも穏やかだった。安住の地、と云う感じだった。
なので最近の俺はローザを封印して居る。
「来月…」
「はい。」
黒い窓硝子に映るローザ。
「一度英吉利に行けないと行けない、空いてる日何時だい?」
一層静かに為り、其の静かさに気付いた。窓から視線を流し、自分の失態に笑いが出た。
「御免、秘書と間違えた。」
「良かった…、把握して居ないのに何て答えたら良いかと…、適当な事は云えませんし。」
「こう云えば良い、私の知る限り多忙です、とね。」
緊張が足りないのか最近、部下と側近秘書を良く間違える。彼も彼で、俺が香港に来る時配属された中将だから把握出来ない。俺の直属中将は英吉利に居る、彼は違う元帥の直属で関わりが無かった。
「何故英吉利に?」
「和蘭が話あるって。」
「ファン・オールド元帥ですか?」
「うん、何だろう。マウリッツから話とか怖過ぎるよ。まさか、僕のマリファナ取ったでしょう、とかじゃ無いよな…」
俺は、余りにも暢気過ぎた。ローザの居ない陸軍が如何為るか位、考えれば簡単な事だったのに。
絶対的なローザの独裁体制、言い換えれば、和蘭と仏蘭西の指揮権限は俺にしか無い。其れが無い今、マウリッツの不安等、考えた事が無かった。和蘭が如何為るか位、マットでも判りそうだ。
彼は小さな声を漏らして笑い、其の時は此方を、とマリファナを二本呉れた。
「有難う、此れでマウリッツを黙らせるよ。」
「御役に立てて光栄です、マーシャル。」
笑い声が闇に吸われた。又沈黙が続き、さてそろそろ本気で帰ろうと腰を上げた。彼も続き、二人で帰り支度を始めた。
「御送りしましょうか。」
「本当?有難う、暇なら泊まって行けば?」
変な猫と犬しか居ないけど。
そう云った。
「クルスは、貴方が居ない時何してるんですか?」
聞かれて初めて考えた、シャギィは日中何をして居るのだろう。良く考えれば凄く暇では無いか。
「犬の守りでもしてるんじゃないかい?」
其れしか考え付かない。
俺の最愛中の最愛ヴィヴィアンとリスキーは一緒に居る。何故って?リスキーの主人がマットだから。後、リスキージュニア、此奴が酷いマザコンでヴィヴィアンから離れたがら無かった。本当はヴィヴィアンも香港に連れて行く予定だったのにジュニアも付いて行くと云ったからリスキーが吠えた。激昂した。食い千切る勢いで尻尾を引っ張った。リスキー、不良上がりだけど凄く子煩悩。俺は平気に息子と離れる事決めたのに、リスキーは違う、離れる位なら逸そ殺すと云う勢いだった。
其れが、俺には辛かった。
俺は平気で…。
自分が犬以下の薄情な人間なのだと、息子に迄ローザを見せた事に吐き気がした。
仕方無しヴィヴィアンが折れ、俺は此処でも薄情だった、何処迄も薄情だった。マットと離れるのは平気な癖に、ヴィヴィアンと離れるのは嫌だった。
今でもそう、心配するのは息子で無く、犬。
そうしてキースに嫉妬した。
あのフレンチブルドッグのキングは、何の不安も持たずキースに抱かれ海に出た。
不公平じゃないか、俺はヴィヴィアンと一緒に居られないのに。キースだけ、狡いじゃないか…。
我が家は、ドッグズキングダム、ドッグシェルターと云われる程犬が多い。家に残す訳にはいかず、全員香港に連れて来た。なのに、ヴィヴィアンは居ない。
何で居ないんだ。
俺にはヴィヴィアン、君が必要なのに。
「テイラー。」
危うく忘れ、帰宅する所だった。彼が犬の事を思い出させて呉れなかったら惨事に為る所、相手は軍用犬、鋼鉄の淑女テイラー中将だ。
――何?ハニー。
「帰るよ。」
――何で?
「休みな事に気付いた。」
――早く云ってよ…
時間も時間で寝て居たテイラーは寝呆けた目で辺りを見、大きな欠伸を咬まし耳を鳴らした。床に毛布を何枚も敷いただけの場所なので寝心地は悪い、故にテイラーの機嫌は悪く、其の悪さに俺は黙って仕舞った。彼は笑い乍らずれたテイラーの帽子を直すと電気を消し、きちんと施錠した。
駐車場に向かう前、テイラーはちょろっと離れた。行き先は、軍用犬宿舎。俺には可愛いテイラーちゃんだが、仕事時は違う。物凄く怖い。そんなに怒らなくとも良いじゃ無いかと思う。ストレスは、老化を早めるよ?
俺達は吊り上がりそうに為る口角を必死に隠し、視線を合わせるとそっとテイラーの後を追った。
穏やかな静かな空気は、テイラーの周り、視線の先だけ緊張する。
――テイラー様ッ、此れは…此れはテイラー様ッ
目の前に立たれたシェパードは、感じた視線に飛び起き、敬礼した。
流石は元独逸軍、過敏で俊敏だ。
犬の敬礼とは石像の様に筋肉を固め座り、きちんと目を見る。そしてテイラ―――上官が頭を下げると立ち上がる。
――起きる事は無い、見回りだ、フリードリヒ。
――異常御座居ません、テイラー様。
――宜しい、私は明日居ない。しっかりと頼んだ。
――良い休日を。
此のシェパード――フリードリヒは、テイラーの右腕。他にもシェパードは居るのに、取り分けテイラーはフリードリヒを贔屓にした。多分、本物の独逸犬だからだと思う。ジャーマンブリティッシュとジャーマニーは違う。前者は種族がゲルマンなだけで国籍は英吉利、後者は名実共に生粋の独逸人。
其れで気付いた、テイラーは、硬派な男に弱い。
あれ、リスキーは?
奴はかなりの不良だよ。
でも、曲がった事が大嫌いな性格は共通する。最初は暫く黙ってるが、もう我慢の限界、或いは理不尽な事に為ると容赦無い。
此れがジャーマン気質、なのかな?
然し、俺達は知って居る。テイラーの尻を凝視するフリードリヒを。
――御待たせ、帰ろう。
「ん…そうだね。ふふ…」
――何笑ってるの?
「いや…?此れは、男だけの、秘め事だよ。ねえ、中将。」
「はい。今日も御美しい、テイラー様。」
中年親父達は若者を苛めた。見ると矢張り、フリードリヒは顔を逸らして居た。同じ男、如何云う気持で凝視してるか位判る。彼の代弁も、まあ合格、けれど下品に云うなら。
「ヤらせろ、色女。」
――少し黙って頂けないだろうか、マーシャルッ
静寂を裂く怒りと羞恥が混ざる一声、テイラーは驚き、俺達は膝を叩いて迄笑った。
――何だッ、驚かすなッ
――失礼致しましたッ
――一寸ぉ、何さぁ、ねぇ…俺寝てたんだけど…、…テイラー様じゃ無いか。
フリードリヒの咆哮でほぼ全員が目を覚まし、取り分け、横に寝て居た元仏蘭西軍のドーベルマンは、知ったテイラーの匂いに覚醒した。
――…僕の部屋、来ませんか…?
――彼の世に行きたいか?
――楽園?良いですね、喜んで。
――フリードリヒ、後は頼んだ。
――仰せの侭に。
大型の直下地震かと錯覚する程フリードリヒは唸り、確かにあの仏蘭西犬は地震が直撃した。ガタガタと揺れ出し、危険だと察知したのか身を伏せた。
だから何でなんだ、仏蘭西人も仏蘭西犬も直ぐ逃げるんだ。
「マーシャル?」
「ん…?」
英吉利から離れる事を決めた、逃げる元凶を知らず思い出した俺は黙って居たのだろう、彼とテイラーの不安な目に気付いた。
「…帰ろうか、早く。」
とても静かな、風も無い夜は、嫌いだ。




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