愛故に


後ろから、素早い足音が近付く。気付きはしたが、気付かない振りをした。言い訳は、書類を見て居たから。其の足音は、確実に俺に迫って居る。階段を駆け下りて居た足音は、一度は俺の歩く廊下を過ぎ、二三段足を進めると一旦止まり、其の侭後退した。そして廊下に向かい、今、俺に向かって居る。詰まり、其の足音の目的は俺。
「ヘンリー。」
腰に腕を回し、書類を持って居た手首を掴まれた。御蔭で書類は花弁の様に宙に舞い、床に散乱した。考えて居た人物と違う事に、俺は放心した。
鼻に知る海の匂い、此れは同じ。けれど其れに重なるムスクは、知らない。
「シャギィ…」
「覚えて居てくれたんだ、Gracias.」
耳を貫く西班牙語には艶があり、知れず興奮した。袖口から見える時計の文字盤、折れそうに細い秒針が時を教える。
「其の時計。」
秒針の動きを追い、云った。
「限定品だよね。」
「何?此れ?」
彼は俺の手首を掴んだ侭同じに時計を見、文字盤を光らせた。
「そう何だ、知らない。」
「欲しかったんだよ。」
此れは本当。広告を見た時、其の時計の美しさに惹かれた。丸で、貝殻の様で、小さな海に見える。其れを付ける事で俺は、ハニーを傍に感じる事が出来ると思った。けれど発売日、俺は英吉利に居なかった。悔しくも、ダイレクトにハニーを、本物の海を見て居た。鯨の噴いた潮を見た時、俺は其の日が時計の発売日だと気付いた。出国する前に誰かに頼めば良かったのだろうが、完全に忘れて居た。帰国し、片付けも侭為らない部屋のテーブルに乗る広告を見て、漸く思い出した。此の時の落胆は、信じられない程大きかった。
「神様を呪ったよ。」
自嘲した俺に、彼は小さく唸った。
「欲しいなら如何ぞ、と云いたいけれど、此れ、軍からの支給品何だよね…」
軍からの支給、配給品は、如何なる理由があっても他人に譲渡しては為らない。其れを認めて仕舞えば、国の秩序が乱れる。
「別に、そう云う意味で云った訳じゃないよ。」
「でもねぇ、ヘンリーが欲しがってるんだもんなぁ…」
「要らないって。」
別に彼から貰わなくとも、俺は良い事を聞いた。此れを支給した本人に欲しいと云えば済む。
俺には、其の人脈がある。
こうして知れず、俺達は秩序を乱して居る。
「キースのは支給品じゃないと思う。だから、奪うさ。」
俺は笑ったが、彼は手首から静かに手を離し、身体を離した。そしてしゃがみ、散乱する書類を拾い集めた。
明らかに機嫌を悪くし、書類の番号を確認する。
「全部あるよ、並べ変えは自分でして。」
乱暴に書類を渡し、其の不機嫌を教える。
「俺の前で、彼奴の話はしないで。」
随分と勝手。俺は彼の恋人でも無ければ、彼はハニーの恋人でも無い。俺達の仲に勝手に入り込み、好きだとほざき、掻き乱す。
「あのね、シャギィ。」
仮にもハニーは君の直属の上司だろうと云うと、無言になった。
「上司でも、嫌い何だ。仕様が無いでしょう。」
「一回、寝た癖に。」
俺の言葉に彼は、息を吸い目を見開いた。
「在れは…」
「君がキースを嫌う理由って、多分、俺にも同じじゃない?」
彼はハニーと寝た。其れは俺が、彼を嫌う正統な理由になる様思う。然し俺は、彼を嫌いにはなれない。
彼は、余りにもハニーと似て居る。
海の匂いを纏い、ネイビーの服を着て、俺に愛を伝える。情熱的に、ダークヘアを揺らす。俺に愛を教える口から出る西班牙語は、丸で魔法みたい。
「俺は、キースに興味は無い。」
「誰が誰に、興味が無いって?」
廊下の角から突如湧いた声。物陰から獲物を狙うライオンの様な鋭い目を向け、彼を睨んだ。
ハニーがライオンなら、彼はチーターに思う。
ハニーは誰が見ても王様で、彼は所詮、恐れられはするもの、決して一番にはなれない。
「俺だって、御前に興味何か無い。」
「…寝た癖に。」
俺の言葉にハニーは一瞬硬直し、必死に言い訳を考えて居た。
「在れは…」
「まあ良いけど。別に、君が誰と寝様と、興味は無いよ。」
詰まり、彼にも興味は無い。彼が幾ら俺に興味示し、俺に近付く為にハニーを利用し様が、其の過程でさえ興味は無い。唯、退屈はしなさそうではある。精々二人で、下らない喧嘩を繰り返して居れば良い。
「其れでは御機嫌よう、Royal Navyさん。」
ライオンとチーターに追い掛けられる鼠も、そう居ないのでは無いだろうか。
良いね、最高だ。
生態系が崩れる様は、堪らなく興奮するね。




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