ジキルとハイドと海と空


一年だ。
一年、彼とは会って居なかった。彼は相変わらずの笑顔で俺に向き、そして周りに向いた。
「マーシャル。」
「嗚呼此れね。此処はこうして…」
波とエンジンに、彼の声は重なる。不思議な事に、彼の声は大きく聞こえた。エンジン音の方が余程大きな音だと云うのに、俺は、彼の声しか、彼の声だけを探した。
早く、云って。
愛してると。
「アドミラル。」
「何だ。」
見詰めて居た目を逸らし、背中を見せ合った。
手を伸ばせば其の髪に、届きそうな距離に居るのに、手を伸ばす事さえ出来無い。
「はい、終わり。英吉利迄俺を自由にして呉れ。」
両手を上げ、彼が仕事から解放されたのは、エメラルドグリーンの海が、ネイビーに変わった頃だった。琥珀色の月に銀色の雲は薄く掛かり、波はダイヤモンドみたく輝いていた。何とか其の宝石を掴めないかと手を伸ばして見るが無理な話であった。
そう。
手を翳せば、其の宝石は手に重なる。なのに決して、此の手に掴む事は出来無い。全く彼の様な波に下唇を噛み締め、氷の溶けたウィスキーを呑んだ。分離した水分、不愉快だった。
「良いかい?俺以外には絶対ドアーを開けたら駄目だからね?八時だよ、其れ迄絶対開けたら駄目。」
不愉快に吐いた息に重なった声。波より、心地好い声。
「ヘンリーの声色を真似してたら?」
未だ少女のあどけなさを残す声は小鳥の様に笑い、ドアーに手を掛けた。
「そしたら云ってやれ。ローザ様の声はもっと素敵よ、そんなしゃがれ声じゃないよと。」
「手を見れば良い?」
「嗚呼屹度、マネキンの手を持って来る。」
「そしたら、開けるのね?」
くすくすと笑う琥珀に彼も笑い、強い頷きを繰り返す。
「そしたら如何なる?」
「如何なるの?」
炯々と目を揺らす琥珀を見た侭勢い良く彼はドアーを開き、両手を上げた侭奇声を発し、侵入した。
「こうなるんだっ」
部屋から聞こえる琥珀の悲鳴と笑い声、足音、そして彼は云った。此処に大時計は無いよと。出て来た時、部屋に入る迄はきちんと結ばれて居た髪は解かれ、其の毛の揺れは、波に見えた。
掴めない、其の宝石に。
「俺は腹を切り裂いたりはしないよ。だって此処には裁縫道具が無いからね。」
石の代わりの砲弾ならあるけどね、とも笑う。
「判ったわ、ママ。ドアーは開けません。」
「良い子で居るんだよ。」
「御休み、ママ。」
「楽しい夢を見て。」
「ママもね。」
月に似た琥珀色の髪に絡む白い指先。其の手は他を触るのに、決して俺には伸びない。
ドアーが閉まり、きちんと施錠された事を彼は知ると深く息を吐き、前髪を揺らした。
月明かりだけの空間、空には月、そして目の前にも、月光を一身に受ける月の姿があった。彼は俺に気付いて居ないのか、俺に背中を見せた。
俺を見下げる月、俺が見詰める月。
靴底の金属が一度鳴った時、グラスを海に捨てた。
「月が、奇麗ですね。」
グラスが海に落ちたかは知らない。側面に当たり、砕けたかも知れない。けれど如何でも良かった。
欲しいのはウィスキーの甘さでは無く、ハニーの甘さ。
見詰めて居た月はゆっくりと姿を動かし、そして其の美しさをはっきりと見せた。
一層輝きを帯びたエメラルドは波に揺れ、アクアマリンを微かに映す。
「…………死んでも、良いよ…」
伸ばした筈の手は振り払われ、宙を泳いだ。
「会いたかった…、キース…」
抱き締める筈が抱き締められ、其れでも構わなかった。きちんと掴める彼を、俺は、粉々に為る迄抱き締めた。粉々に為ったエメラルドからはダイヤモンドが大量に溢れ、そんな宝石を一人占めした。
「どれ程会いたかったか…ヘンリー…」
「もっと云って…。月が奇麗だね…キース…。本当に…」
夢の中でなら何度聞き、そして云った。声帯が潰れる程、繰り返した。蜃気楼に縋っても、決してキスは呉れない。月が奇麗でも、其れは決して、本物では無い事知って居る。
愛してると其の下で、キスを繰り返した。繰り返される俺の名前を呼ぶ声も、重なる唇も、体温も、匂いも、此の手に感じる全て本物だった。
翳すだけでは掴めない。きちんと力を込め握らなければ、掴めない。
其れを自分に教える様に、彼の背中を掴んだ。




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