ジキルとハイドと海と空


流石は元帥様、とキースの部屋に入ったハロルドは笑った。キースの搭乗する軍艦である為、他寝床は、他の軍艦より作りは随分良い。陸軍の軍艦にしか乗らない、知らないハロルドは其の作りの違いに呆れた笑いを漏らす事しか出来無い。多数で、寝心地の悪い湿気た布団で寝起きを繰り返す水兵達が不敏に思えて為らない。雲泥の差で、皮肉を云われても文句は云えまい。
一人部屋であるのは当然で、何とも寝心地良さそうなベッドがある。例えるなら、チープなホテルの客室。キースが寝るには不自然だが、軍艦の寝床にしては豪華であった。
一つあるドアーを開き、すると其処は浴室であった。本当に、チープなホテルの様で、ハロルドは目を丸くさせ瞬きをした。
チェストの上にはマシューの写真があった。見付けたハロルドは繁々と眺め、君にも息子への愛はあったんだねと茶化した。机には書類が乱雑に置かれ、其れだけで、ハロルドの写真は何処にも見当たらず、其れに不満を覚えた。
「俺の写真は?ハァニィ?」
息子の写真は置くのに、何故恋人の写真を置かない。不満を漏らして見たが実際、ハロルドもキースの写真等飾って居ない。部屋にある写真は息子と両親兄弟犬家族、そして陛下。キースの写真等何処にも無く、かと云って持ち歩いてる訳でも無かった。
此の部屋の壁にも、陛下は居る。機嫌を取るのは寝室で、此処では陛下が来て居た。態々こんな、黴っぽい場所に。
床に伸びる国旗を撫で、ハロルドは動きを止めた。漸く帰れるのだと、瞼の裏に英吉利の景色を映し出したのだ。
「キース。」
ベッドに座り、カフス釦を外して居たキースは、ハロルドの声色に怪訝な声色で返答した。
「何だ…?」
「怒ってる?」
「何が?」
勝手に英吉利から離れた事をハロルドは詫び、然しキースには、其れとは違う謝罪に聞こえた。
「云って於くが此の一年。」
外したタイを巻き、枕元に置いた。グラスの重なり合う音、ボトルの蓋が開く音、注がれる音。此れ等全てをハロルドは鮮明に捕らえ、差し出されたグラスを見た。
黄色味掛かったワインは部屋の暗さでは透明に見えた。
「浮気はしてないからな、ハニー。」
片眉とグラスを少し上げ、キースはグラス半分を飲んだ。
「そう…」
呟き、同じ様に飲んだ。一口だけ。酒を飲む気には為れ無かったのだ。英吉利から離れた本当の理由を、ハロルドは嫌でも思い出した。
以降全く口を付けず、キースが二杯目のワインに口を付けた時、グラスを置いた。
「何で、怒らないんだ…」
書類の散らばる机に両手を置き、項垂れた。
「だから何が。」
背中に掛けられる声にハロルドは一層項垂れ、拳を握り締めた。くしゃりと書類は皺を作り、其れは在の時の自分の心情にハロルドは見えた。
「知ってる癖に…」
「シャギィを陛下公認の愛人にして、香港の別荘を与えた事?」
「何で其れ知ってるんだい…」
項垂れさせて居た頭を上げ、渇いた笑みをハロルドは向けた。其処でハロルドは漸く二口目を飲んだ。キースは三杯目が終わろうとして居た。
「独逸ワインかい?」
「いいや?独逸ワインに興味は無い。」
「伊太利亜?嗚呼、西班牙?情熱的な味だから。」
「外すのは、敢えてか…?」
引き攣り上がって居た口角はゆるりと下がり、無表情でキースを見上げた。同じ様に無表情で見下ろすアクアマリンは、全てを知って居た。
「怒れば?」
光無く揺れるエメラルド、其処に感情は無い。唯、出会った頃みたく、呆然とキースを見て居た。
「怒って如何なる。俺は人格者じゃない。」
そう鼻で笑うキースがハロルドには理解出来無かった。未遂の時点でも烈火の如く怒り狂うキースが、何故。
キースに咎める事は出来無かった。其れは自分の行いを反映した訳では無く、ハロルドの云う其れを責めて仕舞えば、物事が判別出来無い無抵抗の幼女、或いは、酷い薬中の男に銃を突き付けられた女に「強姦された御前が悪い」と責めると同じに為る。
「御前が悪い訳じゃないだろう?御前の何処に非がある。俺にはヘンリー、見当たら無いよ。」
「でもねキース…、俺は君を…」
「少し、黙ろうか…」
ハロルドの受けた傷を塞ぐ様にキースは唇を重ね、ハロルドの腕を掴んだ侭ベッドに座った。少し離れた唇の間から漏れた謝罪に、又唇を重ねた。
「もう良い。ヘンリー、大丈夫。問題無い。」
優しく揺れるアクアマリンに熱い息が漏れ、止め処無く涙が溢れた。何時もなら止まる筈のキースの口付けでも止まらず、寧ろ溢れ出た。制御出来無い涙にハロルド自身困惑した。舌先でワインの味と塩気が混ざる度、ゆっくりと涙は止まって行った。
暖かい体温、良く知る匂い、其れを知る度、ハロルドの心は暖かく為った。
「ハニー、愛してるよ。」
「俺もだよ、ハニー。」
「何で浮気して無いんだい?」
君を虐める正当な理由が無いじゃないかと、べろりと一変。愛しいがき大将は鼻声で笑い、キースは顎を引き、視線を逸らした。
「する理由が無いだろう…」
「何で。一年俺が居ないんだよ?浮気し放題じゃないか。」
「だからだよ…」
キースが浮気を繰り返すのは、ハロルドから怒りを受け、其れに依って愛情を確認すると云う、何とも歪んだ理由に依る。ハロルドの居ない場所で浮気をしても、確認する術が無い。
其れを十二分に理解するハロルドはにんまりと笑い、ワインを飲み干した。
「さてハニー…」
獲物を見付けた猟奇殺人鬼とでも云おうか。加虐的に揺れるハロルドの目に、背中が冷たく為ったが、知れず興奮したのは確かである。
「虐める理由が無いね。如何仕様…?」
「有難う…。風呂に入って寝るよ…。八時にママがドアーを開けに来るんだ…」
一年振りの誘いを期待して居ただけに落胆は酷く、溜息噛み殺しハロルドに背を向けた。
「其の変わり。」
海より深く、愛し合おう。
後ろから回されるハロルドの腕に、手を重ねた。




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