監獄で葡萄酒を一口


兄には三日に一度会って居た。
格別用事がある訳では無く、暇がある訳でも無く、詰まりは私と妻の様子を覗きに来た。兄は地学者であるから、考古学見習いの私に教える事は何も無い。月に一度、國枝先生からと云う事で二十冊ばかりの本を寄越す。私は其れが楽しみで仕方無かった。
新しい知識を覚える事も然り、けれど一番の理由は、本があれば妻の事を考えずに済むからだった。
最近、愛着、と云う物を覚え始めたが、私は妻が嫌いだ。貯蓄した嫌悪は数ヶ月其処いらで拭える代物では無い。妻以外見ない私はまるで牢屋に入れられた気分に為り、兄が来る日を楽しみ、本が来る日を待ち侘びた。
本は十日あれば読み終わった。
大概難しい内容で理解苦しむが、妻と顔を合わせるより余程マシに思えた。書斎の本棚は、國枝先生の思惑通り埋まる。私は其れを、何処か楽しんで居た。宝物が増えた様な喜びと、良くもまあこんな迄の量を読んだと云う優越感。妻が一度、無断で一冊手に取り(勿論私は此処ぞとばかりに非難した)十頁程読んだ所で、「意味判らん」と投げ出したのは気分良かった。
妻に問題は無い。あるのは私。
妻は、妻としてはかなり点数は良かった。私が起きる前に起き、料理を作り、掃除をし、一寸暇があれば裁縫や編物をして居る。妻は洋服を着るので、國枝先生の用意した着物を洋服に変えたりもした。私は洋服等、そんな物は幼少時代から着ないので、折角國枝先生が用意して下すった其れがワンピースやらに変化するのは、余り気分良い物では無い。
兄が報告して居るのだろう、二回目に、本と共に洋服が大量に届いた。妻は喜び、浮かれたが、私が興味示す事は無かった。妻が一人ファッションショウをして居る後ろで、私は本を読んだ。そんなめかし込んでも行く場所は無い。けれど妻は楽しそうであった。
兄に一度「茜の何が不満か」と聞かれた。
何が。
全てが。
此の先好きに為る事は無いと断言もした。
「今迄嫌いやった女を、結婚しました、ほな好きに為りますわ、とは為らんのとちゃいます?」
「何で嫌い何や。」
「何でて、生理的に受け付けんのですよ。」
私自身でも、何故妻を昔から嫌いなのか良く判って居ない。
気が付いた時には癪に触り、嫌いに為って居た。
唯、毛嫌いした。
「茜、可哀相や無いか。こんなに好きなのに。」
「ほんなら何です、付き纏われた挙げ句結婚したわいは、可哀相や無いゆうんですか。」
兄は困り果て、何とか私達夫婦の仲を取り持とうとするが、私に其の気が全く無い事を知ると諦めた。
諦めの最後には、こんな非難と云うか侮辱を受けた。
「嫌いや何やゆうても、する事はしてんねんやろ?大層やな。」
「一寸待って下さいよ。」
何時に無く声は抗う。
悪いが、私は嫌いな女で慾を処理する性格では無い。侮辱も大概にして貰いたかった。
其れで兄は等々諦めた。
「筋金入りか…自分…」
欲情しないのに抱ける筈が無い。確かに私は下半身に脳味噌、思考全て付いて居ると云っても過言では無いが、妻を抱く気には為れない。だったら如何してるのかと聞かれたので、普通に自分で処理して居ると答えた。兄は、目の前に女が居るのに…、やっぱり阿呆や、と頭を抱えた。
兄は嗚呼云うが、実際私は女が怖かった。姉達から植え付けられた恐怖は、年月が経とうが、女に本気で情を移そうが、妻を嫌いな事と同じに変化する事は無かった。此の先、妻を抱く事も他の女を抱く事も無いだろうと思う。
私の女への恐怖心は、其れ程強かった。
例を挙げるのなら、良く妄想する某女優。私は彼女に幾度と無く欲情し、あらゆる妄想を膨らませたが、本物が迫って来たら私は逃げる。写真からも伝わる在の色気と云う色気を肉眼と全身で知ったら―――欲情よりも恐怖が勝るに違いない。
情を移しに移した初恋の阿玉。
彼女とも、無理と判る。彼女自体が無垢なのもあるが、無垢程怖い物は無い。妹の恭子を見ても、純粋とは一種の罪だ。
色気ある女も、純粋な女も、ヒステリーな女も、何れも怖い。
妻に色気は無く、けれど純粋でも無く、最悪な事に一寸ヒステリー気味、然も何か在れば直ぐ泣く。私の気持を伺う目や態度も、欲情を真っさらにした。
女は大好きだが、抱く事は無いだろう。
生身で無いなら平気…、此れ一種の倒錯癖である。
「もう一生、童貞でええわ…」
妻の化粧台にふいに映った自分に云った。すると鏡の私はありありと欲望を表し「ほんまに其れでええんか」と聞く。化粧台に並ぶ化粧品、白粉の白さ、頬紅の橙(妻は血色悪いのを少女時代から気にして居る為、橙色を好んで叩く)、梅の花弁の様な淡い…此れは何色であろうか、唇紅。此れ等全てが妻の顔を形成して居る。なのに、其の妻には欲情しないのに、此れ等には、唇紅の様な淡い欲情を抱いた。
「敵わんな。」
誰に云う訳でも無く云った。




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