監獄で葡萄酒を一口
随分と前な気もするが、実際には半年しか経って居なかった。兄の代わりに、懐かしい顔を迎えた。
「弥勒さん…」
「久し振り、八雲。」
私は拷問の中、相当年月が経った気分で居た。妻と強制的に結婚させられた半年前、「半年後に又来るから」と弥勒氏から云われた。私は忘れては居たが、頭の何処かでは明確に覚えて居た。
氏が来る。
詰まり。
「茜ちゃあん。」
弥勒氏は玄関先から動く事はせず、侭声を上げた。二階の掃除をして居た妻は、まさかの兄では無い来客に慌てて階段、から下りる事は無く、玄関の真上の部屋から頭を出した。
「はあいっ」
予期せぬ所から文字通り降って来た声に弥勒氏は辺りを見渡す。
「え、何処。」
「此処です、上です、上ぇ。」
「え、あ、…嗚呼、其処か。」
数歩下がり、二階を見上げた弥勒氏は眩しそうだった。当然である、太陽は今丁度、弥勒氏の目の前にある。
「あのねぇえ、茜ちゃん。」
「はぁい?」
妻は癖で短い返事を伸ばす。妻が云う「はい」と私が云う「何でしょう」は信じられない事に同じ時間を要する。弥勒氏も氏で間延びした口調である。せっかちな私が此の二人の会話に苛々するのは当然である、が。兄弟子には云えないので黙って於く。
「新婚の所悪いんだけど。」
新婚、と妻は鼻で笑った気がしたが、掻き消す様に言葉を繋いだ。
「國枝先生ですね。」
「そう。三ヶ月八雲を借りるから。」
弥勒氏が名の通り菩薩に見えた。流石は弥勒菩薩。此れからはこっそりと“菩薩氏”と呼んで遣ろうか。
妻は「嗚呼三ヶ月、あい、判りました」、二階から長ったるい返事をした。
妻への用事が終わった弥勒氏は、一変私に向き、明るさに慣れた目をしばつかせた。
「國枝先生から。」
云って出したのは一本のワインであった。
「何で又。ワイン何ぞ。」
私は酒を(此の頃は余り飲む事は無かったので)飲まない、と伝えると氏はくりくりと小さな目を動かした。
「あ、そうなの?」
「飲まれへん事も無いですけど…」
「そう、じゃあ此れは是非飲んで。美味しいから。」
弥勒氏、顔に似合わずワインの味が判るらしかった。ワインはそうだな、夏彦氏の方が似合いそうである。
受け取ったボトル、ラベルを見、すっかりワインイコール仏蘭西と見当して居たが、全く違った。
「何処のです、此れ。」
「西班牙。」
「西班牙…。へぇ、何で又。」
酒に大した知識無い私は、出た国名に目を流した。西班牙がワインを製造して居る事の新しい知識と、何故西班牙のが、と云う意味合いである。
「國枝先生がいらしてね。」
「西班牙に?」
「うん。」
此処でも私は「何で又」と返事した。
弥勒氏は「ほら在れ」「在れだよ」と、両手を三角形に動かす。
「でっかいさ、ほら。有名な。ほらあるじゃん。教会。」
「…サグラダ・ファミリア…?」
「そうっ、其れ。」
其れを見に國枝先生は西班牙に行ったと弥勒氏は、然も自分の事の様に話す。國枝先生から送られた書物の中に、ヨーロッパの歴史的建造物の物があった。其の中に、其れはあった。数日前に読んだばかりだったので私は記憶して居た。
「いやぁ國枝先生、御金持っちゃうと散財しちゃう方だからさあ。」
成程、在の陸軍から受けた給料で國枝先生は氏曰くの散々をしたらしい。
「八雲に見せて遣りたかったなあ、って帰国第一声。」
照れた。嬉しさに、照れた。國枝先生が其処迄私を思って下さる事に、素直に嬉しく、感謝した。ワインは飲むべきであろう。
然し。
「ワイングラス、無いですよ。」
「でしょう、だと思って。」
今度は國枝先生からでは無く、夏彦氏から。矢張り夏彦氏、ワインを嗜んで居た。桐の箱、蓋を開けると真紅のシルクの中にグラスは鎮座して居た。シルクの滑らかさを其の曲線で私に教え、指先に触れたシルクの滑らかさと云ったら無い。赤ん坊を取り出す様に私は慎重にグラスを取った。
「奇麗や…」
完璧とも取れる曲線、…別嬪である。
「ほんま、大きに…」
「ワインよりグラスとはね。八雲らしいや。」
師よりも兄弟子か、と弥勒氏は云って居る様だった。
「先生は三日後いらっしゃる。明後日の朝、此の時間、迎えに来るから。」
玄関先に掛けてあるカレンダーに氏は触れ、國枝先生が来る日と迎えに来る日を指す。
「判りました、御待ちしてます。構いませんと、すんません。」
「良いの良いの。じゃあねん。」
停めてある車に乗り、屈託の無い笑顔で手を振る。私は其れを見送り、家に入った。すると妻が、ぬぼ、っと突っ立って居た。二階から失礼したかと思えば、一階に居てもきちんと挨拶しない。此れが國枝先生だったら、と思うと辟易した。
「挨拶位、きちんとしろや。兄弟子やぞ。」
「御免…」
しよと思てん、せやけどする前に帰られてしもてん…
妻は俯いた。リビングに行くと、テーブルには二人分の茶が用意されて居た。私は溜息を漏らし、「堪忍」そう云った。
一寸づつではあるが変化し始めり私に妻はぱっと顔を明るくさせ、「ううん、ええよ」と笑う。
グラスは二人分、夏彦氏の思惑に私はたじろいだ。
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