監獄で葡萄酒を一口


三ヶ月ばかりであるが、私には一生の解放の様に思えた。明日一日妻と居るだけで良い、然すれば私は解放される。柔らかい湯舟に浸かり、天井に上る蒸気に顔を綻ばした。風呂から上がったら在のワインを飲もう。此れは甘口の白だから良く冷やした方が此れは美味しいと夏彦氏の助言。グラスの見事な迄の曲線美、在の中に液体を蓄えた姿を想像すると興奮した。其れはグラスの体液と云っても良い。
國枝先生は余りワインを飲まないらしく、同行した夏彦氏が「此れなら先生の御口にも合うでしょう」と差し出したのが、土産のワイン。夏彦氏が同行したのは、大学で西班牙語を選考して居たからである。國枝先生は飲むなり、引き締まった味の中にある甘さを大層気に入り、私にも味合わせて遣ろうと思って下すったのだ。先生の気遣いに恐縮し、風呂から上がった私は、氷水の中に、数分前の自分と似た様子で沈むワインを見た。
「茜。」
「何?」
「ワイン、飲むか?」
ボトルの水気をタオルに染み込ませ(夏彦氏がそうしろと云った為)、コルクを回した。鼻に抜けるアルコールと果実の甘さ、其れだけで酔いそうな程艶があった。
「ええの…?」
妻は私を伺い、グラスを一つ、テーブルに置く。
「わい一人で空けれるかいな。」
「招ばれよ。」
真向かいに座った妻は最初私に注ぎ、そして自分にも注いだ。
想像した通り、ワインを蓄えたグラスは上品であり強烈な色気があった。完璧なグラスの姿、一帝國に君臨する女帝に見えた。
夏彦氏は此れを在の陰湿な空気で眺めたのか。弥勒氏は矢張り陽気に眺めたのか。
テーブルに君臨する姿に、私達は言葉も無かった。
「圧巻、されるな…」
「グラスの所為何やろか…」
此の家は國枝先生が提供した。従って家にある家具、道具も全て國枝先生が誂えた。テーブルは木を一度炭にし研磨した物で、漆を塗った様に真黒で光って居る。其の上に此のグラスは良く似合った。いや、此のグラスの為に作られた様な程であった。
「ほんなら…」
「緊張して来た…」
私達、根は小心者。女帝を目の前に震えた。
緊張の余りか最初の一口、味は判らなかった。其れ程、其れ程私達は緊張して居たのだ。
テーブルにグラスを一旦置いた私達は顔を見合わせ、「判るか?」「いや…」と言葉を交わす。師と兄弟子に申し訳無く感じた。
二口目、此れは良く判った。舌に乗った冷たさ、舌奥に滑り込むアルコールの柔らかさ、喉と鼻、二手に別れた匂い。勝手に液体は私の身体に侵入し、容易く女帝は体液を私に提供した。
「何やねん、此れ…」
「ふわぁ…、舌が吃驚してるわ…」
「わいは脳味噌が吃驚してる…」
互いのグラスは空であった。
此のワイン、高級と云う訳でも良作と云う訳でも無い。何処にでもあるワインで、部類だと二級酒に値する。西班牙のカフェに行けば置いてある、普通のワインなのだ。なのに私達は、最高級みたく取れた。
何故か。
全て夏彦氏が見立てたグラスの所為である。
此のワインには此の形、ワイン一つ一つの味と色加減でグラスの形状を考えて居る。
此のワインには此の、下は細く真ん中から盛り上がるグラスが一番合うと夏彦氏は知ったのだ。
何の変哲も無いワインを此処迄魅力さすのは、夏彦氏のワインに対する愛情であろう。
二杯目、三杯目、すんなり入った頃にはボトルが空いた。名残惜しい気持一杯で、最後の一口、其れを堪能した。
「旨い、何てもんやあらへんわ…」
「西班牙行きたいわ…」
果たして、西班牙でも同じ味に思えるか。此のグラスで無ければ駄目な事判って居る。なので私は、舌に残った余韻を逃がさぬ様に黙って居た。
「気分良い侭、寝よか。」
「せやな…」
私達は普通に飲んで仕舞ったが、ワインは水では無い。アルコールは低い乍らもある。低いと云ってもビールよりは倍程あるが、私達は其れを完全に忘れて居たのだ。此処にある日本酒、在れは國枝先生の好みで度数が二十三と若干高い。舌が其れに慣れて居た。
二十三度の日本酒猪口一杯と、十度程度のワインを三杯、酔いの加減が違った。妻はへなりと床に座り、頭が回ると額を押さえる。私も若干、視界が動いて居た。
「立てや。」
「立ちたいねん…けど立てんねや…。立たしてな…」
仕方無し私は床に座る妻を抱え、良かった、一階にある寝室へと連れた。
二つ並ぶベッド、私は妻の方のベッドに妻を投げ捨て、自分のベッドに伸びた。互いの溜息はワインの匂いを放ち、ベッドに沈むと身体にアルコールが回った。
「だるいなぁ…」
「せやななぁ…」
「なあ、八雲…」
「何ぞ…」
「そっち、行ってえ…?」
「あかん…」
口では抵抗出来た。けれど身体は抵抗出来ず、ベッドから片足一歩、二歩目には私のベッドに妻は落ちた。アルコールが身体を容赦無く侵食する様に、妻は私の領域を侵食した。
「あっち行けや…。わいの領域侵すなや…」
片足で妻を蹴り、然し妻も負けては居ない。だるい腕に両腕絡め、顔を二の腕にぐりぐり押し付けた。
妻の髪からする石鹸の匂い。吐かれるワインの溜息と混ざり、私の鼻を刺激した。
「も、ほんま止めて。」
「何で…」
「気色悪いねん…」
私は素直に“ワインに依って”気分悪い事を云った積もりだったが、妻は矢張り“自分”でそうだと捉えた。
「何で…?」
「寝かせや…」
「何でなん…?」
「煩いな、床にど突くぞ。」
やっとこさ妻に背を向け、ずっしりとしたアルコールの疲労に従った。うつらうつらと夢と現実を行った時、妻の手の動きに目が開いた。腰から手は伸び、私の手を握った。
後ろから抱擁されたのだ。
「何…?何で、手ぇ握るん…」
「だって…」
妻は淫乱の気があるのか、細い滑らかな肌質の足を私の両足の間に一本入れた。
「何…?いや、ほんま止めて。」
「何時ん為ったら…」
「足抜けや…、変態か…」
「抱いて呉れんの…?」
「はい…っ?何てっ?」
飛び起き、上半身を後ろに捻った。カーテンを閉め忘れた所為で部屋にはうっすら月明かりが差し込み、妻の顔を少し私に見せた。真っ暗であれば気付か無かった。妻の目元は濡れており、恨めがましく私を見て居た。
「何やねん…」
「やから…」
「嗚呼、もう、ええ、二度と云うなや。悍ましい…」
「悍ましいて、何よ…っ」
終には妻のヒステリーが始まった。妻は泣いた後、必ずヒステリーを起こすのだ。
「喚くなや、うっさいっ」
「喚いてんのどっちよっ」
「喚かせてんのどっちやっ」
「何で喧嘩せなあかんのっ?」
「先に売ったんそっちやないかっ」
「何で、何でよぅ…」
ヒステリーは涙で鎮火する。妻は顔を覆うと「嫌」「もう嫌」と、其れは私が云いたい台詞であった。
「何でなん、何でこう為んの…」
「ほんなら帰れや。帰って親父に泣いて詫びろや。」
「嫌、嫌…ぁ」
「何がしたいねんっ、嗚呼っ?」
「何で怒鳴るん…」
「怒鳴らせとんの誰やっ」
私と居るのも嫌、日本に一人で帰るのも嫌、怒鳴りたくも為る。
「何やねん…ほんま…」
恨みがましい妻の目に怒りが呆れに代わり、ベッドに胡座を掻いた。
「何がしたいねん…なあ…」
「一緒に居たい…」
「もう…っ」
私は寝たいのだ。今直ぐ、此の余韻と共に気持良く寝たいのだ。妻の所為で台無しにされ、気分害した私は寝室から飛び出し、リビングに向かった。此処にはソファがある。ワインには悪いが日本酒でも引っ掛け、不貞寝した方が良さそうに思えた。
「八雲…っ」
「何やねん…」
私の髪の毛は、翌日あるだろうか。ストレスで一気に抜け落ちそうである。
「嫌、ねえ嫌…」
「何やねん…」
数分前から「何やねん」しか云えて居ない。「何やねん」「何やねん」と云う度に毛が抜けるのでは無いか、不安を覚えた。
「何やねん…」
又、毛が抜けた(に違いない)。
「今日だけ、いや、明日も…、一緒に寝たいねん…」
「何で…?」
「だって…」
二日後私は妻を一人にする。三ヶ月、其れが妻には、一生に思えて為らない。私と同じ考えだが、全く気持は違って居た。
「だってもう、八雲、帰らへん気ぃするもん…」
妻は小さな身体に不安を沢山、グラスのワインの様に蓄えて居た。
「阿保か…」
私は気持、一生の解放に捉えて居るが、三ヶ月経てば戻って来る。此処しか私に居場所は無いのだ。
何処に行くと云う。
日本に帰れる訳でも無し、此処に居なければ國枝先生と繋がら無いと云うのに。
然し妻は、三ヶ月が半年、半年が一年、一年が一生、永久的に私が帰って来ないと本気で考えて居た。
「八雲居ない人生なら死んだ方がマシやぁ…」
「なら死ねやぁ…。死んだらえや無いかぁ…」
そして私を解放して呉れ―――とは流石に云えない。何を大袈裟な、大袈裟な妻に完全に呆れた。
「何処に行くって云うねん、ほんま。」
「判らへん…」
「ほれ、見てみぃ。取り越し苦労や無いか。」
「帰って、来る…?」
「来る来る。来ます。」
「絶対…?」
「絶対、何があっても、死んでも帰って来ます。化けて出たります。此れで…満足か…?」
「いや…」
「何やねん…っ」
呆れは終いには笑いに変わった。恨めがましく見上げる妻の目に笑い、額を小突く。
「此れがわい。此れが考古学者の斎藤八雲。嫁でもほったらかしますよぉ。」
「嫁…」
「嫁ちゃうんかい…」
ほんなら何や、ほんまにわいの気ぃを逆撫でする為の存在かい。
妻は、こうして私と一緒に為った時から、一層の距離を全身で感じて居る。弥勒氏から“新婚”と云われ「何処がやねん」と鼻で笑い、私が“嫁”と妻に面と向かって云うと疑問を持つ。
妻は妻為りに、結構ストレスがあったらしい。着飾って居るだけの癖に。此の半年、日本に帰ろうと何度考えたか、本当に居て良いのか、私が雲みたく風に流れて消えるのでは無いか、妻は毎日考えて居た。朝起きて、横に私が寝て居ると、何れ程安堵するか。だから妻は私より先に起きて居たのだ。
夜もそう。私が寝る迄、自分が寝て居る間に消えない様に起きて居た。
そう考えると、一寸、気持悪い。
囚人を監視する監視員か、己は。全く牢獄では無いか。
「朝は好きなだけ寝てて下さい。夜は早ぅ寝たかったら寝て下さい。監視すんの、止めて下さい。」
「監視ちゃうしな。」
「わいは、何処にも、行きません。」
恨めがましい妻の目から、大きな涙がぼたっと落ちた。
「ほんま…?」
「一生、傍に居ったるわ。」
「ほんま…?ねえほんま?」
「あんましつこいとな、脱獄すんで。」
「嗚呼嫌…」
もう云わへん、と妻はふらりと揺れ、安堵から又一気に酔いを回した。
「大人しく寝ろや…」
「八雲ぉ…」
「何やねん…、もう運ばんしな。床で寝ろや。」
「だぁい好き。」
「う…っ?」
返事は要らないのか妻は、一度丁寧に、在の“へえへえまあ”を連呼して居た老婆みたく頭を下げ、寝室に行った。
私の、手を優しく引いて。
「手ぇ、繋いで寝よ…?」
「縄で縛っとけや、もう。」
其の晩、私は初めて妻と同じ場所に寝、朝日を拝んだ。




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