不幸の定義


三ヶ月の遺跡調査から帰宅した八雲は、車の音に飛び起き玄関で待ち構えて居た茜を無視して風呂場に向かった。玄関に置かれた荷物を片そうと持ち上げる。
冬の終わりに出て行き、固い花の蕾は緩く為り、そうして緩やかに開いた。
春が、又来た。
一年はあっという間に茜の身体を素通りした。
砂っぽい脱ぎ捨てられた着物、噎せ返る程の臭気に顔を顰め、洗濯した方が良いのか雑巾にする可きか悩んだ。
「八雲ぉ。」
張った水を頭から被る音に紛れさせたのが悪かったのか、返事は無い。
「なあ、八雲て。」
四月にしては暑い今日、五月みたいである。寒さに耐久ある八雲は此れ程の気温だと暑さを知る、頭から水を被る事に躊躇いは無い。開いた風呂場の戸、頭から何度も被り、飛沫が茜の足に付く。
桶を持つ腕は浅黒く、髪は肩甲骨に迄張り付く。腕を動かす度肩甲骨の筋肉は収縮し、線を引いた様に真ん中に真っ直ぐな影を作る背中、腰骨は左右に凹み、締まりのある臀部から伸びる二本の足には水が絡む。
八雲の裸と云う物を初めて見た茜は、堪らず顔を逸らした。
――あたしと、全然違う…
女人の裸体なら見飽きて居る、肩は薄くなだらかな傾斜をし、其処から生える二本の腕は枝を付けただけな風で、八雲みたく造形は無い。
腰もそうだ、真っ直ぐでは無い。臀部はぼってりと脂肪を蓄え、見るからに堅そうな八雲のとは違う。
「…何?」
後ろに払った髪の雫が、茜の顔に飛ぶ。
「何で見てん。ほんま覗くの止めや。出るし、向かれへんがな。」
少し身体を斜めに、顔を向けた八雲は茜を睨んだ。褐色の身体の上で珠と為る水、黄色い宝石に見えた。
「御免…」
茜が背を向けタオルを広げると漸く正面向き、冷気が茜の頬を撫でる。タオルの前で又見せた背中に茜は肩からタオルを掛けた。
「如何、遣った…?」
「何が。」
「調査。」
ぽんぽんと叩き乍ら水気を切る、焦れったく感じた八雲はタオルを奪うと頭を拭き、腰に巻いた。
暫くの無言、茜は小さく首を傾げた。
「着替えは。」
「あ、御免。」
降り落ちる八雲の視線に茜は慌てて浴衣を広げた。白い手から伸びる帯を引き抜き、摩擦熱を知った茜はぴくんと手を弾いた。
「何で其処に居てん。する為ちゃうんか、よぅ云わな出来へんのなら居てんな。邪魔や。」
小指の関節に、摩擦で生じた赤い線があった。只管其れを見る茜に八雲は黒目を上げ、心底馬鹿にした表情で眼鏡を掛けると横を抜けた。
「八雲…」
「何や。」
玄関に向かう廊下、確かに置いた筈の荷物が無い事に気付いた八雲は茜の言葉を遮り、荷物の置かれて居た場所を指した。
「書斎…に、置いたよ…?あかんかった?」
「何で勝手にすんねん。」
遣る事為す事全てが裏目に出る茜、遣る事為す事全てが気に食わない八雲。
「ほんま何やねん、自分。」
声が色で認識出来たら、黒色の声。其れも奇麗な目が覚める様な黒では無い、ありとあらゆる色を混ぜ最終的に黒と認識出来る色に為ったに過ぎない黒い色。
ぎしぎしと階段を登る音に、涙が滲んだ。
「八雲。」
「せやから何やねん、さっきから。」
赤黒い声。
「御免、な…?」
果たして何色の声か。
「ほんま、もう、何で居てん…」
八雲の本心は、すっきりとした濁り一点無い純白だった。




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