不幸の定義


八雲が書斎に篭って二時間、茜は一人でソファに座って居た。何処を見て居るか、考えても居ない視線が浮かび、辺りは静かにゆっくり、黒い浸食を始めた。
此の世に音等は存在せず、実は自分の聴覚機能が損なわれたのでは無いかと錯覚する程静かだった。
でも、其れを望んだかも知れない。知りたい言葉は何処にも無く、知りたくも無い言葉ばかりが入る。逸そ、八雲の声等聞こえなく為れば良いのに。
けれど聴覚は確かにあって、二階から下りて来る足音は知れた。暗い居間に座る茜を足音は気にもせず、廊下を抜ける。ガラガラと引き戸が開く。
「弥勒兄さん。」
「夏彦がさ。」
引き戸は又閉まる。
又、暗い世界に放り出された茜。
眩む光、顔を向けると八雲が驚いた顔で存在に気付いた事を知らせた。
「は?居てたんか…?」
「何処行くって、云うねん…」
「居てんなら電気位点けろや、暗い女やな。」
「今晩は、茜ちゃん。」
弥勒の笑顔に救われた。名の通りの男である。
弥勒の笑顔に便乗した茜の笑顔、テーブル椅子に弥勒を座らせた八雲は又二階に上がる。にこにことした弥勒の笑顔、何を飲むか聞いた。
「構わないで良いよ、直ぐ帰るから。」
「でも。」
しないと八雲に又叱責される。其れが恐怖で堪らない茜はソファから立ち、台所に向かう為廊下を出た。
「…何やねん。邪魔やて。」
「珈琲…」
「…邪魔。」
帰宅した八雲の荷物の中で一際大きく重量のあった鞄、二階に運ぶ必要が無かった。やらかした失態に茜は額を叩き、割れそうな程痛む頭の動きを知った。
今迄軽い頭痛を知った事はある。随分と前。其れが此の半年は無く、今行き成り来た。巨大な手で左右から締め付けられ、中からも痛みは沸き上がる。
「あ…、あ…?」
圧迫される痛みと沸き上がる痛み、異なる痛みに頭を占領された茜は熱を宿す瞼を頻りに動かし、噛み締めたいのに勝手に口角が、頭を制圧する手に引かれる様に吊り上がる。
台所に行く所か立つ事も出来無く為った茜は廊下に座り込み、其の音に弥勒が向いた。
「茜ちゃん…?」
「あ?」
入口から見える足の裏、指に力を入れて居た。廊下の上で足の裏が見える事自体おかしな話で、
「茜…?」
椅子から立ち、廊下に向かって響いた八雲の声に足は跳ねた。終いには一つだった足が二つに為り、指は床に反り、膝下しか見えないが、四つん這いで頭を廊下に擦り付けて居る姿が想像出来た。
「何し…」
暗い廊下で蹲り、頭を抱える異常な妻の姿に八雲は一旦弥勒に向き、廊下を見た弥勒は、自分が茜の夫の様に狼狽した。頭を床に擦り付ける茜の身体を起こし、頭痛いの?御腹痛いの?と頻りに聞いた。
「茜ちゃんっ」
「よぅ…叫ばんで…頭…」
「八雲…?」
立った侭二人を見下ろす八雲の顔には何の思いも見られない。精々読み取れて、何で廊下で寝てんだ、位で茜に対する心配は何処にも無い。
「頭痛いん?」
頷く事も小さな返事も出来無い茜は足に力を入れた。
「せやったら寝たらええやん。」
「八雲っ」
弥勒の声が頭に響いた。
「其れが奥さんに対する態度?」
「わいに如何しろ云うんですか。」
「動けると思う?普通は運ぶよねっ?」
驚きの度が過ぎ冷静に為って居る訳では無い八雲に気付いた弥勒は望むのを諦め、茜を抱えると寝室に連れて来て行こうとしたが、八雲は一言「二階」そう云った。
情も無い八雲の態度、弥勒の顔は菩薩には似合わない程歪み、茜の目から涙が零れた。
「あのさあ、八雲。」
「二階の、直ぐ判りますよ。」
「前から云いたかったんだけど、其の態度、何なの?」
「は?」
自分の態度の何が問題なのか検討付かない。弥勒に対して露骨な嫌悪は見せた記憶は無い、だからと云って夏彦みたく全てを馬鹿にした態度でも無い、至って普通に過ごして居るだけに、弥勒の言葉は不愉快だった。
「茜ちゃんに対して、酷いと思わない?」
出会った時から変わらない態度、今更冷たい事に気付く筈も無く、気付いた所で改善もしない。嫌なら離れたら良いのだ、誰も無理に引き止めて等居ない。監禁もして居ない。茜自らが居るだけで、其れを何故非難されなければ為らないのか。
兄だけでは無く、無関係の弥勒からも指摘された八雲は終に怒りが沸点を超えた。
「何やねん、なあ。」
どす黒い声色に茜は強張り、頭痛を重くした。
「八雲、八雲待って。」
腕から茜を引き落とそうとする八雲に気付いたが、遅く、壁に押し付けられた茜は頭痛と恐怖で鼻水迄出し始めた。
「御免、御免八雲…」
「何でや、あ?何でわいが加害者や。何で茜が被害者面すんねん、なあ…っ」
揺さ振られ、身体を壁に打ち付けられる度頭が揺れた。
「八雲、八雲っ」
沸点超えた八雲の顔は鬼の様に険しく、茜は勿論弥勒も危険を感じた。
「帰れや、そんなん為る位なら帰れやっ。誰が頼んだ、誰がおって呉れゆうたっ、自分の判断ちゃうんかっ、なあっ」
「違…ちゃう…ちゃう…」
日本に帰れ、父親に頭を下げて許して貰え、と八雲は再三云い続けた。其れでも茜は一縷の希望で八雲に縋った。無視をしたのは茜自身、自ら選んだ道なのに望んだ道では無かった事に気付き始めた。
愛されたかっただけ、必要とされたかっただけ、こんな事を望んだ訳では無いと云う、否定の言葉が口から漏れた。自分を否定した。
「何がちゃうねん、何時誰が頭下げておって下さいゆうたっ、ちゃう事あるかっ」
泣き乍らアンビバレンツな思いと戦い八雲に請う姿に、普段なら極力争い事からは逃げる弥勒だが、我慢為らず口を出した。兎に角其の手を離せと、薄い肩を鷲掴む手を掴んだ。
「八雲、止めやあっ。茜ちゃん、頭痛いゆうてるわなっ」
幾ら嫌いとは云え、少しは情に絆されても、悪く云えば諦めたら良いのに、頑なに茜を拒絶する八雲は不思議に映る。恋愛感情が無い男女でも夫婦は遣って行ける、其れには一寸だけ情が必要だが八雲には全く無い。沸かせ様ともしない。潔良く諦め、阿玉に見せた情を一寸でも見せろと込めた弥勒の声は張り上がる。
此れが根からの無情な人格者なら周りも茜も諦める。然し違う事を知って居る為、八雲を変え様とする。八雲には其れが堪らない。
「うっさい、黙れや。他人が口出すなや。」
弥勒の心配さえも拒絶する。此れには弥勒も頭に血が上った。
「被害者面してんのは、八雲と違うか?ほんに嫌なら、なんぼでも出来たんと違う?國枝先生ぇにゆわはったら宜しやないの、日本帰したって下さいて。其れもよぅせんと、被害者面して、大層やわっ」
「面ぁ?面ちゃうわ、被害者や、わいが被害者やっ」
肩から手を離した八雲は俯く茜の腕を引き、二階に引き摺ろうとする。
「せやから乱暴止めぇゆうてるやろっ」
「運べばえんやろ、其れが兄さんの望みなんやろっ」
「運ぶ、運ぶ、僕が運ぶわっ」
二人の体重を受けた階段は不気味な程鳴る、抜けやしないかと八雲は下からそろそろ付き、二つ並ぶ手前のベッドに茜を寝かせた。
「一番痛いのは何処?」
久し振りに聞いた優しい人間の声に茜は潤み、蟀谷に触れた。
「偏頭痛の方が強いね。僕の手は冷たいから少しは楽に為るよ。」
弥勒の冷たい指先が脈打つ蟀谷に触れ、どくどくと流動する血が静かに為った。
「大きに…」
「頭痛は友達…対処は慣れてる。八雲。」
「はい?」
黄色味掛かった白とでも云おうか、弥勒の小さくも力強い声色に茜は安心し、痛みが引いて行くのが判る。
「吐き気もあるって云ったし、偏頭痛だね、目を中心に蟀谷を指で圧迫される様な痛み。夏彦が此れだから、相当しんどい。僕は緊張型、職業柄って云っても良い。八雲も其の内嫌でも友達に為る。」
「最悪…」
「筋肉強張るからね…、頭痛は覚悟してな。此れは首を温めたら良いけど、偏頭痛は目元を冷やしてね。」
「頭痛にも沢山ありますねぇ。」
「偏頭痛の原因はストレス何だけどねぇ、八雲。」
笑い乍らも厳しく咎める弥勒に八雲は目を細めた。其の茜のストレスとやらが全く判らないのが、斎藤八雲と云う男である。
「日本帰れや。」
此れに尽きるだろうと云ったが、ぱちんと弥勒は額を押さえ、其れだ其れだよ其の言葉だよ、と無言で歎いた。一寸だけで良い、優しい声色で話し掛けて遣ればすんなり収まる。
「帰るね…」
「はあ。」
「後此れ薬…」
「準備ええですね。弥勒菩薩では無く薬師如来ですか?」
「夏彦のだよっ」
「愛に溢れてますなぁ。出来とンのとちゃいます?」
「…もう好きに云って良いよ…。出来てる出来てる…毎晩愛し合ってるよ…。如何でも良いけど、夏彦の実家御寺だよ…。坊さんに為りたくないから東京来たの。」
破壊僧を菩薩心で救って遣る程の愛が御前にあるか、是非見習って呉れ給え、と云いたげに弥勒は寝室から出た。見送りは在の調子だと要らないだろう、弥勒も望んで居なかったが、薬を飲ます為には水が居る、結局見送った。帰り際、
「被害者とか加害者とかさ、考えるの止め様。人生諦めが肝心だよ。諦めたら、次の扉が見える。同じ事に固執すると、違う事に気付かないよ。八雲は如何遣ったって茜ちゃんと一緒に居る、諦めな。津雲さんの事だって、皆結局は諦めたんでしょ?」
と弥勒は云った。




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