日の出ずる国


日本から出たのは十五の時、此れは本意では無かった。大阪から東京、其れも納得行かなかったのだが、其処から中国は驚いた。
思えば私の人生は、不本意に故郷を捨てた時から、諦めと不本意の叩き売りだった。其れしか在庫が残って無いんじゃないかって位。
最初は國枝先生。見ず知らずの老紳士に誘拐され、東京に来た。そして、兄弟子と先生に扱き使われ、中国と云う訳の判らない大陸に運ばれた。
大陸の奥地で知った、初恋。情の全てを其れに注ぐ筈だったのだが、私の在庫は不本意と諦め。日本から大嫌いな馴染みの女茜が来、不本意と云う不本意を私に押し売った。
要らん、要らんて。帰ってな。
何度云っても強情なセールスマンは帰らない。恫喝なら未だ此方も負けないが、ヒステリーは頂けない、大阪人でも負けました。仕方無し買うと、本当に要らない事に腹立たしさを覚えた。日に日に人相悪く為る私に「大事にしろ」と周りは助言する。
欲しいなら差し上げます、ええほんま。
業者の大元に返品したいが「出来ません」と門前払い。他人に譲ろうかとも思うが笑顔で拒否をされる。不良債権を手にした私は路頭に迷い、逸そ首でも吊ろうかと、十六で思って仕舞った。
人相は、十六で既にチンピラみたく為り、なのに神経はそんなチンピラに追い回される奴みたく衰弱した。
世の中世知辛い、何てったって、世間もよぅ知らん十六の小僧に不良債権何ぞ掴ます。然も此の不良債権、結局私に掴ます物だった。其れが一寸早まったに過ぎず、悲観した。素直に悲観した、悲観しか出来無かった、御先真っ暗とは此の事である。
不良債権を良債権にする可く、私が次に売られたのは“諦め”だった。
喧嘩ならなんぼでも買うたります。なんぼでも売って下さい、利益仰山で御返ししますよって。
諦めると、不本意な人生も悪くないんじゃ無かろうかと洗脳されて仕舞うから不思議だ。ほう、不良債権は宗教だったらしい。嫌な事に気付いて仕舞った。
一年、二年と、私は洗脳され、頭がパアに為った。元からだが。人生楽しいじゃないか、と浮かれた。と云うのも、十八の時、娘が出来た。此れ、人間じゃなくて、白い虎。在の不良債権に子供何か出来る訳無い、だって不良債権だから。
“白虎”と云えば、四神の一匹では無いか。チンロン、チューチュエ、ショワンウー、そしてパイフー。おおう、素晴らしい物を手に入れて仕舞った、人生捨てたモンちゃいます。
此れ、中国で手にした、と云うのが、又何とも魅力的では無いか。白虎は道を啓示する土の精、考古学者の卵の私には、中国の神様が送って呉れたとしか思えない。守護方角は西。
西―――西かあ…。日本は中国の右側、詰まり東にある。如何遣っても中国を護る積もりで居ます、白虎。ヨーロッパ護ってもなあ…。
あ、でも北と南をぎゃっこにしたら……あかんか…。
地図をひっくり返しても、イストとウェストは返りませんでした。文字が逆に為っただけでした。西から昇った御日様が東に沈む、此れで良いのだ、此れで…。
良い事あるかい。
良いんです、別に。白虎の御母ちゃんは、我が大日本帝國から昇る太陽を見て死んだのですから。娘にきちんと、道を、示したのだから。
「白虎、此れが、日ぃの出ずる、国やで。沈む場所、ちゃうで。」
――キラキラや。
「沈む場所は、もう護らんとええよ。」
朝日が昇る。光の道標は波を泳ぎ、白虎の黄色い目を輝かせる。
不本意に祖国を捨てて五年、私は再び此の目に、昇る太陽を拝んだ。
見晒せ、此れが日の丸や。
――めっさ奇麗、めっさ奇麗…っ
良く云えば慎ましい、悪く云えば単純極まりない、白地に赤い丸の模様が豪く気に入ったのか、日本に着いたのが丁度祝日と…民間の門先に垂れ下がる其れを見た白虎はうるうる鳴いた。終いには「欲しい」と迄云い出し、はて、此の国旗は一家に一枚あるが、在れは何処で入手するのか。買うとは思えない、…配給か。新聞と一緒に配られるのか。
陸軍省にでも恵んで貰いに行くか。
丁度其の時、暇そうな軍の人間が居た。いや、見回りと云う大事な仕事をして居るのだが、私には暇潰しにふらふらして居る様にしか見えなかった。
私は五年、日本に居なかった。陸軍なのか海軍なのかも判らない。全く見た事も無い軍服で、軍関係者かも疑わしい。そんな疑問を解決したのは、祝日なのに国旗を掲上して居ない民家である。
見回りして居た男は、国旗の無い門先に首を傾げ、門を叩いた。
「済みません、一寸宜しいですか。」
顔は、目深に被る軍帽の鍔で見えないが、物腰の柔らかい、春みたいな声をする男で顔は想像出来た。
ぎ…っと木の門が開き、出て来たのは豪く腰の曲がった老婆で、老婆は男を見るなり益々腰を曲げ、「御暑いのに」と労った。男は少ししゃがみ、老婆と顔を並べると「前田さん、今日は祝日ですよ」と教えた。老婆は申し訳なさそうに肩を竦め、「判ってます」「判ってるんですけど…」と門を見上げた。
釣られて私も見た。
成程、届かないから掲げる事が出来無いらしい。
男は「そっか」「じゃあ僕がしてあげるね」と、家の中に入った。数分して、何処の民家よりもでかい日の丸が男の両手に持たれ、靡く其れは青空に良く栄えた。白虎の目は益々輝き、凝視する。
然し如何だ。
筒に棒が嵌まらないのである。男の身長でも掲上出来無い。思わず失笑し、男も老婆も固まって居た。
「私、しましょうか?」
男は私を見ると、びくりと強張った。
…うわっ、ちっさっ。茜よりチビや無いかっ
何だ此の小さな男は。小人か。
優に一八0センチ越える私と、特に白虎に男は固まった。老婆は小さな目をくりくりさせ、白虎を「可愛いらしい」「可愛い御嬢ちゃんね」と撫でた。うるうると鳴き乍ら、巨大な頭を小さな老婆の身体に擦り付ける白虎。私は男から国旗を受け取り、「良く判りましたね、雌って」と容易く挿した。
「判りますよ、目でね。私、猫飼ってるんで。」
「良かったなあ、白虎。いっつも男ん子と間違えられるもんなあ。」
「こんな可愛い優しい目をした子が、男の子なもんですか。ねえ。」
白虎は上機嫌である、一方男は不機嫌に私を見上げて居た。
「…有難う。」
鍔の下から見えた顔、鋭く吊り上がった目で、私を睨む。老婆は構わず曲がった腰を少し伸ばし、白虎の背中にへばり付く。かなりの猫好きらしい、少女みたく笑う。うるうると鳴き、白虎は少ししゃがんで、老婆が楽に背中にへばり付ける様にした。
吊り上がった目。
思わず出た。
「不客气。」
「え…?」
「あ、いえ、構いませんよ。暇でしたから。所で貴方は、軍の方?陸軍?」
話を逸らした積もりが、此れで男の不信感を募らせた。日本人が何故、軍服を着て居る(であろう)人間に「軍関係者?」と聞く。
男は少し後退し、白虎と私を上から下迄見た。
「陸軍少尉の、木島です。」
名乗るのも、関わるのも嫌だと、吊り上がる目は語る。
「木島…?木島和臣…?」
男の真っ直ぐ吊り上がる眉がぴくりと動き、出た名前に老婆は顔を向け、「木島様木島様」と繰り返した。男は帽子を脱ぐと、記憶する全く瓜二つの顔を晒した。
「如何にも、木島和臣は僕の父だ。」
終に老婆は男を拝み始めた。老婆の心はすっかり、在の大戦時に戻ったらしい。
「木島様、ねえ木島様。日本は御勝ち遊ばしまして。」
此の老婆、少し痴呆が入って居るらしい。故に白虎に恐れも抱かず、無謀にもへばり付いたのだ。
腕を掴まれた男は少し困った顔で、皺くちゃな手を握り「そうだね」「勝つね」「日本だもん」と安心させた。
何を云うか。陛下崩御で、無様に戦線離脱したでは無いか。
老婆が身体から離れた白虎は身体を震わし、毛並みを調えた。間違っても、老婆が嫌だったとかでは無い…。
「あの、木島さん。」
「はい?」
「伺いたいんですが、国旗って、何処で手に入るんですか?」
「は…?何処の?英吉利の?ゆーにおーん…」
「いえ、日本、の…」
余程木島の元帥閣下を崇拝して居たのだろう、老婆の目はキラキラして居る。
「持って無いの…?」
纏わり付く老婆の手を何度も振り払い乍ら、男は答える。此処で「はい」と云えば非国民決定、「軍関係者?」と聞いた時の目を見ただけに何をされるか判らない。
「白虎が、欲しいって…。一枚しか無いので…其れを与えたら…」
良くもまあ、ぽんぽんと嘘が出る。
わい、考古学者辞めて、詐欺師為ったらえんちゃう…?
男は「嗚呼」と頷き、「愛国心溢れる娘さんで…」と引いた。
引く事無いや無いか、あほんだら。親父と瓜二つの気味悪い顔し腐ってからに。余程そっちの方が引くわ。
すると、今迄男しか見て居なかった老婆が「だったら此れあげるわ」と、今さっき私が挿した其れを指した。
「良いわよね、幸裕さん。」
家に向かって云う老婆。
何だ、男が居るんじゃないか。だったら其のユキヒロさんとやらが、私の代わりに挿せば良かったでは無いか。
然し返事は無い。
「あのぉ、前田さん…」
男は困惑して居た。
「おかしいわね…」
等と云って私達に構わず老婆は家に入った。男の顔は益々困惑する。
「一人ちゃうねんな。」
「いや、一人だよ。さっき見たから。在れは一人だよ。」
「………朦朧かい。」
軽い痴呆の騒ぎでは無いでは無いか。ユキヒロさんを探して来た老婆は、「居ないわね」「でも大丈夫」と一回り小さな国旗を持って来た。
「あ、其れで良いです、其れで。」
「白虎ちゃん大きいから大きい方が…」
「ええです、ほんま。」
「本当に?」
云って老婆は白虎に其れを掛け、手に入った事を全身で表した。日の丸を地面に、巨大を擦り付けた。白が、うわ、汚…っ。
「嗚呼…っ」
此れはあかん…。
男で無くても悲鳴が出る。
「一寸、一寸親御さんっ、止めてっ。国旗に乗っちゃ駄目っ」
其れでも白虎は気にせずうるうるうる。
「白虎ちゃあん…。ねえ駄目だよぉ…、うるうるうるうる…」
何を遣って居るんだ、此の暇軍人は。ごろごろと旗に身体を擦り付ける白虎を止めたいのだろうが、腹這いで端を掴み懇願する男は、白虎からして見れば御仲間で、大きな手ではしっと顔を叩かれた。
「虎の肉球って、固い…」
何だ其の感想は。
然し此の男、見れば見る程猫に見える。顔がそうなのか、いや然し、私が記憶する限り父親の木島和臣は“孤高の狼”と呼ばれて居た。体勢か、其の身体付きが猫なのか。腰を突き出し、白虎と顔を並べる男は、飯の取り合いをする猫に似て居る。
「白虎、うるうるはええから、御姉さんに“謝謝”ゆうて。要感 謝謝、白虎。」
大阪国憲法では、中年以上は全て“御姉さん”と呼ばなければ為りません。“おばちゃん”等と云ったら殺されます、“おばあちゃん”等論外です。“其処のしゅっとした御姉さん、話聞いてんか”と云えば大概止まって呉れます、例え、ボンレスハムのパンチパーマのおばちゃんでもです、豹がプリントされたシャツを着て「でや、女豹やでぇ」と阿呆ゆうてるおばちゃんでもです。
白虎ははたと止ま、其の巨大を立たすと「謝謝」と鳴いた。
此れ、本当に「謝謝」と聞こえるのだ。しゃぅしゃぅ、と文字で表せばそうなのだが、だみ声で出すので「謝謝」と聞こえる。
茜の事は、本来の鳴き声に似ている為「まぁぉま」と普通に呼べ、私の事は少しだみ声にし「ばぁぉば」と呼ぶ。
老婆は小さな目を真ん丸にし、「御喋り上手ねぇ」と砂塗れの国旗を白虎に掛けた。
吊り上がる男の目が痛い。私と白虎の会話は大体が中国語なので普通に出して仕舞ったが、此処は日本であった。英語なら未だしも中国語。男は老婆をやんわり家に引き込み、「僕が来る迄其処に居ろ」と強烈な眼光で教えた。
そらそうです、昔の敵国の言葉を話したんですから。
逃げるか、然し、こんな虎を連れて歩く奴等、日本いや世界でも私一人位だろう。「白い虎を連れた長身の眼鏡掛けたうさん臭い男知らないか」と聞き込みされたら終わりだ。
此処は素直に待つ、面倒は御免だから。
私一人なら「抜かせあほんだら」「一寸違う言葉喋っただけやないか」と在の気弱な男相手になら云えが、私が問題を起こせば國枝老師に迷惑が掛かる。
老師とは此れ、中国語で“先生”と云う意味なので、日本語の“老いた師”と云う意味では決して無い、明らかに國枝老師は老いて居るが。二十代でも“老師”である。私でも、弟子が出来れば“斎藤老師”と為る。同じに“老女”、此れは中国語だと“愛しい(女の)人”に為るので、中国人に“老女”と云われたからと云って怒っては可哀相である。此れで一度茜と喧嘩した。「誰が婆やねん」と。
そんな下らない事(茜との喧嘩)を考えて居ると、男は門から出て来た。
「良し、居たね。」
「居ろと仰いましたよね。」
「君、日本人?」
何を云ってる此の暇軍人。暑さで遣られたか。
「じゃあ伺いますけど、何人に見えるんです?」
「中国人。」
わし、怒ってもええか。ど突くぞほんま。
いかんいかん、大阪民の年配男性の一人称は“わし”な為、つい出て仕舞った。
気では“平常心平常心”と思うのだが、荒ぶる血がぐらぐら煮える。
出て仕舞った。
「耳かっぽじってよぅ聞けやあほんだら、何が中国人や、大阪や。生まれも育ちも大阪ですぅ。ちいと中国語話しただけで中国人か、ほんなら何や、英語話す奴は皆英吉利人かい。阿呆抜かせ、ほんまもンか。」
父の気等知らず、白虎は国旗を背中に満足に鳴いて居る。まあ私ががなり立てるのは日常茶飯事なので、慣れて居る。
男はぽかんと、異国の言葉を聞く様な顔をする。
駄目だ此奴、明らかに足りてない、相手にもしたくない。
「あんさぁ、ほんま行ってい?用事あんねん、なあっ。御宅等とちごて暇ちゃうねん、なあ。」
「だったら名前と職業云ってっ」
「はあ?何でやっ、尋問かっ。誰でもえやないかっ」
「云わないなら、不審者で貼紙出すよ。国旗を貰いに来る中国人に注意、って。」
「斎藤八雲っ、斎場のサイに、トウ…フジっ、ほんで八つ、ハチ。で、クモっ、空の雲っ。サイトーヤクモっ」
「職業。は、無職ね?」
「ほんまど突くぞっ、ガキっ。考古学者ですっ、國枝門下ですっ」
さらさらと手帳に私の個人情報を書き留め、年齢不詳、と書かれたので「二十歳」と答えて於いた。
「…僕と一つ違い…?三十代かと思った。」
「白虎、ほんま此奴食い千切ってええよ。」
「御嬢さん幾つ?」
「三つぅ。」
「…………はんっ、三つぅ。」
何で鼻で笑った此のガキ。
男は其れで満足したのか、すたすた歩き出し、見回りの続きをした。
「何やねん、彼奴。」
ムカッ腹の私は、飛び蹴りでも食らわせて遣ろうかと思った。一方機嫌の良い白虎は「日本の男っておもろい」とうるうる鳴いた。




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