日の出ずる国


暇軍人の相手に疲れ帰宅した私は、此れ又國枝老師が用意した家の前に停まる車にぞっとした。
見間違う訳が無い、其の趣味悪い車。菊花紋章の日の丸(赤丸が赤い菊花紋章)…右翼派関西極道の頂点に君臨する夜叉、茜の父親の車である。
幼い頃は、極道が何たるかを知らず“唯の金持”と茜の家を把握して居た。兄から「唯の金持な訳あるか」と、茜の家に厳つい男衆が居る理由を教えて呉れた。
そやった、わい、夜叉を敵に回してたんや…。然も右翼…。
今更血の気が引き、何で日本に戻ったのか、誰だ、五年位したらほとぼりが冷めると云った奴は。
車に映る自分の顔が面白いのか、白虎は車に近寄る。
「白虎、あかん…。毛でも付けてみ…。首から下、赤虎なんで…」
「あ、八雲はん。」
出た。出た、出ました、由岐城組系青龍会若頭、松山。顔の傷、増えてませんか…?パリっと糊の利いたスーツ何ぞ召して、何してはるんですか。
「豪い時間迄大変ですな、御嬢も親父も待ってますよ。」
知ってたら帰って来ませんでしたよ。
白虎には、判るのだろう。人見知りは全くしないのだが、松山を見る為り私の後ろに回った。笑って居るのに不気味で、殺気がある。
由岐城組は其処等極道とは違う、エリート中のエリート(極道にエリートたるのが存在するかは判らんが)によって構成される。高学歴で長身、男前、武道の達人、紳士…由岐城組の集会、在れは何処ぞの華族の集会で、一見するとインテリジェンスで極道では無い。
判り易く云うと、ナチス。エリート集団の国防軍が由岐城組で、チンピラの寄せ集めの突撃隊が他関西極道だ。
其のエリート極道の頂点に君臨するのが茜の父親で、組長は其の弟、此のインテリジェンス極道が実質ナンバースリーの松山である。出身大学は京都帝國大学法学部と云うから驚きだ。
「嗚呼。」
私の後ろで怯える白虎を細長い目で見、「御嬢の御嬢」と云った。
何と云うか、眼光で人を殺すんじゃ無いかと思える。人工的なナイフと云うよりは、割った硝子の自然な鋭さだ。
ナイフは殺傷能力があり、其れが基本である。割れた硝子は尖って居るだけで、危ないな、と思うだけ。然し一寸した拍子で簡単に人を殺せる。尖った先に突き倒せば…?簡単に死ぬ。ナイフを見せられたら容易く恐怖を覚えるが、割れた硝子を見せられて「殺される」とは大抵は思わない。
松山はそんな目をして居る。
「白虎、です…」
「別嬪さんで。」
「大きに…」
「八雲はん、中に。白虎嬢はどないしますの。」
「何時も中に…」
「御嬢、御嬢此方ですよ。中に親父居てますから、二階に。」
然し、松山の気味悪さに中々動かず「嫌」「絶対動かへん」と地に足を踏ん張った。
「八雲はん。」
「白虎…わいも居てるから。大丈夫や。」
其れで漸く白虎は動き、入ったは良いが、不穏な家の空気に玄関から全く動かなく為った。だったらもう仕様が無いと白虎を其処に、私は松山の後ろを付いて応接間に行った。私の家なのに、だ。
「会長、八雲はん帰宅為さいましたよ。」
背中にびっしり汗が滲み、目眩迄して来た。
わい、指詰めるんやろか…。
由岐城組の宝を五年も連れ回したのだから。然し、私は何度も…いや、今更云っても遅い。私と茜が夫婦なのは間違いないのだから。
「開けや、誠昭。」
マサアキ、とは松山の事である。
「へ、失礼を。」
ぶっ倒れるかと思った。
開けられた障子の向こうに、茜を横に座る父親は、夜叉、まさに夜叉だった。
「八雲。」
「へい…?」
へでもはでも、いでもひでも無い中間音の返事。まともに返事も出来んのかと云われたが、誰がこんな夜叉にまともな返事が出来る。晴天の霹靂、極道さんがいらっしゃる等私は知らなかったのだから。
「座れや。」
「え、何処に…?上座座ってますやん。」
「前や、前。横でもええけど。」
父親が大好きな茜、其れは良く知って居る。何時に無く笑顔だ。
前に座るなり私は俯いた。此の夜叉の顔、まともには見られない。気迫云々では無く、あるのだ、夜叉の牙を隠す傷が。耳から口端に掛けて。松山の眉間の傷等、此れを見たら可愛い物である。
因みに松山の眉間の傷は、神戸に居た頃抗争が起き、身を呈して茜を守った時の代物である。茜曰く、背中にも大きな傷がある。背中に彫られた青い龍に、ばっさり行った傷が。故に松山率いる会の名前が、其の抗争で茜を守った松山に因んで“青龍会”なのだ。
白虎に、青龍…。
偶然にしては、気味が悪い。
「ほんで八雲。」
「はい…」
「どないすんねん。」
「何が、です…?」
「籍や、籍。パァか。」
「あ、嗚呼…」
私達は夫婦だが、籍は入って居ない。中国に居たので、何処に出せば良いか判らなかった。中国側に出せば私達は中国国籍と為り完全な“中国人夫婦”、日本人では無く為る。幸い中国は日本と違い夫婦別姓なので、私達の苗字が違っても疑問には思われなかった。先ず、人に会わない。國枝老師に、日本で婚姻届を出して貰う事も出来たが、何故か誰も、老師も私達も、兄達も全く“契約書”の事を忘れて居た。今云われて、あ、と気付いた位だった。
「出しはった…?」
「ワシが?何でや。ワシが出せば公文書偽造じゃ、犯罪やないか。」
散々犯罪を繰り返す癖に何を云って居るんだ、此の犯罪者組織の頂点は。終に耄碌か。
「な、誠昭。犯罪やな。」
「へ。犯罪です。刑法十七章文書偽造罪、公文書偽造罪一五五条に値し、三年以下の懲役です。」
「ほれ見てみぃ。此の年で勤めてみぃ、御苦労さんちゃうで。」
「罰金払たら大丈夫でっせ。」
「ほぅか。」
濛々と白煙流し、夜叉は話す。そして松山、云う度に頭を下げて律儀である。
「そんなん如何でもええねん。籍入れぇゆうてん、ワシは。」
「はあ。」
「はあ、ちゃうねん。阿呆か。」
「入れたら、えんちゃいます…?なあ、茜。」
「せやな。うん。八雲の好きにしたらええよ。八雲がしたい様したいらええよ。」
「ほんなら其れで。」
ほんでええ加減帰って呉れ。遠路遥々大阪のど田舎から来て貰って恐縮だが。
「誠昭…」
「へ。」
「此の阿呆、ほんまモンか…」
松山は夜叉の言葉に苦笑い、私にそっと寄った。夜叉が今にも其の牙を見せそうである。
「あんですね、八雲はん。」
「はあ。」
わい、はあ、しかゆえてないやないか。
「籍入れる云う事はですね、判ります?」
「判るよ、判ります。わい其処迄阿呆ちゃいます。」
「苗字、決めなあかんのですよ、判ります?」
わい、何も判ってないやないかい。
重大な事をすっからかんに忘れて居た。
茜が“斎藤茜”に為るのか、私が“由岐城八雲”に為るのか。在の村の風習を完全に忘れて居た。
そう、だから此の夜叉は抗争を理由に、態々神戸から大阪のど田舎に来たのだ。大阪に来るなら中心地で精力広めたら良い物、組本部を神戸に置いた侭、夜叉一家はど田舎に来た。極端に過剰な女子出生率の女村、此の気味な風習に目を付け。
斎藤八雲、人生の窮地に立たされて居ます。
由岐城八雲に為れば最後、二度と考古学者としては生きて行けない。極道の世界に入って仕舞う、不本意に。
「其れは…あの…」
「茜な、一人娘何や。ワシの大事な、だあいじな、宝モン…」
茜の白い顎に夜叉の手が伸びる。
「はい、其れは、はい、知って…」
真横に感じた松山の視線。畳を見た侭固まる私の顔を、じっと見て居た。
「ワシの宝でも、あんねん、八雲…。親父の宝は、組の宝…。延いてはワシの宝や…」
静かな殺気。
此れが、夜叉と其れを守る者の殺気。
全身で嫌と云う程知る。
「あの…あの……」
「三日、待ったるわ。」
「いえ…あの…」
「今、出すか…?」
私は深く息を吸い、鎮座する夜叉を見た。そうして深く、深く頭を下げた。
逃げて如何する、今迄散々逃げたでは無いか、此れ以上、何処に逃げる。逃げる場所は無いのに。
「ほんま、すんません。此れ云うの違いますけど。」
茜が其れで良いなら構わない。
「斎藤茜に、して下さい。」
消えた殺気。真横に居た松山はすっと立ち上がり、音無く玄関に向いた。
「其れでええんか、茜。考古学者とか。金、無いで。」
がっかりした様な、其れで居て柔らかい声色。心底、此の五年の月日を心配して居たのが判る。行き成り愛娘が消え、五年も音沙汰無しだったのだから、夜叉とは云え心労は否めない。今更如何こう出来る時期は過ぎ、成長した娘に破顔した。
「ええんよ、御父ちゃん、其れで。貧乏、慣れてるもん。」
「茜がええなら、ええか。八雲。」
「はい。」
「茜が泣き付いて来たら、容赦無く由岐城八雲や、覚悟せぇ。」
「承知の上で。」
ぴくんと吊り上がった夜叉の眉、正面向き、一糸乱れぬ私の目に溜息を吐いた。惜しい、と。
「其の目。惜しいなぁ。極道の目ぇしてるわ。組長、したるよ…?」
「いいえ、結構。私は、考古学者ですから。」
スーツ着込んだ血生臭い生活より、私には、泥臭い方が似合いだ。
「茜、何時でも帰って来てええからな?」
未練たらたらの夜叉に茜は笑う。
「帰らへん。」
云って茜は私の横に座り、びたっと、腕に絡み付いて来た。
「此処が帰る場所。八雲居たら、なあんも要らんよ。」
そうしてもう一つ、私に張り付いた体温。白虎にしては小さい物で、此れは、嗚呼、良く知ってる。
「………恭子…」
「やくにぃ…」
思わず、涙が出た。
夜叉が茜を思う様に、ずっと、ずっと心配して居た。私の、大事な妹。
「恭子、恭…っ」
「会いたかったよぉ…」
「でか為ったなあ…」
小さかった恭子が、すっかり私を抱き締めるられる程大きく為って居た。腕も伸び、顔は相変わらずだが、可愛い。白虎が車を頻りに気にして居たのは、車体に映る自分が面白いからでは無く、中に居る恭子の気配を感じて居たから。恭子は其の時、後部席で横に為って寝ていた、カーテンが引かれて居たので私は全く気付かなかったのだが、車の中から私と似た様な気配がしたのなら、白虎は気にするだろう。兄弟子達の車は無視で、注目する等今迄に無い事だったので、不思議だった。
「恭子。」
「もう、何で恭子置いてくねん…。アカネェは連れんのに。」
「ちゃう、勝手に来たんやて。わいは知らん。」
「三日したら迎え来るしな。恭子ちゃん、五年分のべったり、しとき。」
成長したとは云え未だ未だ小さい恭子の頭を其の侭握り潰せそうな程でかい夜叉の手が撫でた。私の頭には、頭蓋骨陥没させる気満々の強烈な拳固を食らわせたが。在の由岐城の宝を貰ったにしては、軽い。もっと、関西だけでは無く、全国の極道から追われる覚悟をして居ただけに拍子抜けした。
痛いが、破顔し、私の背中にごろごろと頭を擦り寄せる恭子の姿に、不思議と痛みは消えた。
「玄関の在れ何?でっかい猫ちゃん。」
「猫ちゃう、虎やて。白虎。」
「白虎ぉ。」
「白虎、来てええよ。松山はん帰ったよ。」
――ほんま…?
ほんまも何も、玄関を通っただろうに。余程松山の雰囲気が気味悪かったらしい。
寄って来た白虎は恭子の匂いを嗅ぎ、ぴくんと耳を動かした。私と同じ匂いがする事に驚いた様子だった。
「白虎。」
――何や。
「此れ、恭子。わいの―」
―宝。
白虎はやっぱりね、と笑い、恭子に向いた。私と似た目、そう云えば、長兄が云った。恭子は笑うと私にそっくりで、私の子供みたいだと。
そんな兄妹を、私は知ってる。
中国の奥地で見た、在の兄妹。彼方の妹も、兄にべったりして居たっけ…。そして、兄も又然り。
「挨拶して。」
鳴いた白虎。私に似る細長い目を恭子は丸々と見開き、わあ、と漏らした。
「話した…、話した…っ。ニィハオ、ゆうたっ」
「せやあ、話せんねん。凄いやろ。」
「凄い、すっごいっ」
幼児みたく(とは云っても未だ十歳だが)恭子は手を叩き喜び、畳に寝転がった。下から白虎を愛で、満更でも無い風に優しく白虎は見る。
「でもやくにぃ、在れやんな。」
「何?」
「アカネェが斎藤なら、やくにぃ、やくにぃちゃうやん。」
「は?」
瞬間、茜が恭子の口を塞いだ。恭子はうがうがと鼻鳴らし、然し茜も負けては居ない、我が子を殺す形相で口を塞ぐ手に力を入れた。
「茜。」
「何でも、無いで…?」
「離し。」
無理矢理恭子から手を離させ、良く判らない呼吸音を繰り返す恭子に向いた。
「わいが、何?」
「八雲…」
「黙れ。恭子、兄ちゃんに、話してな…?」
「うち今、斎藤やん?」
小さな目はくりくり動く。
「うん。」
「恭子…、恭子、あかん…」
「十五歳為ったら、由岐城なんねん。」
「は…?」
馬鹿垂れ恭子、と云う具合に茜は額を叩き、私無関係、と云う顔で腰を上げた。許す筈が無い、恭子を見た侭枯れ枝の様に細い腕を掴んだ。
「座れ、ほんで話せ。」
「恭子、由岐城ちゃうよ…?」
「あ、せや。松山や。」
「あ…?」
恭子の云いたい事、良く判った。
十五歳に為ったら、在のエリート極道若頭松山と結婚する。松山はもう在の夜叉の息子も同然なので、私が由岐城に為らないと云う事に「兄妹」では無く為る、と捉えた。
意味が判らない、松山は変態なのか…?十歳の子供に「ワシの嫁ん為れ」と云うのは。松山、御前、軽く三十代超えてるだろう。変態か、ほんまモンや無いか。
おんどれ松山、ワシの宝によぅ阿呆抜かしたな。
夜叉が認めた夜叉の気迫、其れに茜は狼狽え、違うを繰り返す。
「八雲…、八雲が悪いんやっ」
「嗚呼っ?何でやっ」
「八雲がおらんく為ったからっ」
「は…?」
茜の説明は、全く理解出来無い。私が居ない事にショックを受けた恭子を松山が宥め、松山も茜が居ない寂しさを恭子で代用した。松山は変態では無い、御嬢もこんな時代あったなあ、と懐かしさで恭子を構って居たのだが、男が極端に少ない閉鎖的な村、居る男と云えば芋ばかり。洗練された匂いをさせ、皺一つ無いスーツを着た優しいエリート極道に惚れたのは、仕方無い…事なのだろうか…。
だからと云って、嫁がせる事無いでは無いか。
松山が何れ程素晴らしい男であるかを話す恭子の目は、情に揺れ輝いて居る。
此の目は、嗚呼、妹は一体何時の間に女に為ったのだろう。知らぬ間に、私を良い意味で裏切る。
其れで良い、其れで良いんだ、恭子。日が昇る様に、君は大人に為れば良い。私の様に、不本意で大人に為らざるを選なく為った様な、そんな諦めの人生にはしないで欲しい。
輝く目は日影の泳ぐ波。
全く本当、日本の女は逞しい。守る必要、何処にも無い、なあ、白虎。




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