朱雀と鳳凰


ぺったりと額に冷たい物が張り付いて居た。いや、元は冷たかったタオル。あたしの体温を奪って、生温く為ってた。
「お、起きたか。茜。」
茜…。
其れはあたしの名前。
赤の好きな御母ちゃんが、付けて呉れた。御父ちゃんは、あたしを産んだ後御母ちゃんが見た空が茜色してたからやぁとはゆうた。其れ見て「茜…」「嗚呼、茜や…」ゆうたって。せやから御父ちゃん、一寸阿呆ちゃんやから、其れがあたしの名前や思て“茜”て付けた。

――御母ちゃん、此の鳥奇麗なぁ。赤いなぁ。

腰から足を伸ばし、嘴を項に沿えて、大きな翼を片方、真っ白い肌に燃えさす朱雀。あたしは触れて、大好きやった。
此のタオルは其れによぅ似てた。

――朱雀、ゆうねん。奇麗やろ。
――スザク…?
――朱い雀、て書くねん。
――え、此れ、雀なんっ?
――雀ちゃうけど。

せやたら何か、云われてもよぅ判らんて、御母ちゃんは笑う。
「朱雀…」
「ん?朱雀?」
「在の朱雀、何…?」
あたしが倒れたんにはきちんと理由がある。理由無かったら病気やで、脳梗塞。
いや、此れも病気やけど。心因の。
八雲の広げた掛け軸に、其れはあった。テーブルの上で羽を広げる朱雀に、あたしはぶっ倒れた。広がる羽に攫われそうで、過去を持ってかれそうで、いや、朱雀は確かに記憶を巻き上げた。
指されたテーブルに顔を向けた八雲は「朱雀?」と吐き、首を戻した。
「朱雀て?」
「在れ、朱雀ちゃうんか…」
「ちゃうし。在れ、鳳凰。」
「鳳、凰…?」
「鳥で一番偉いねん。」
むっくり起き上がり、其の鳳凰たる鳥を眺めた。
「鳳凰…」
「朱雀に見えん事も無いけどな。」
大事なもんやし触らんと、と八雲は掛け軸を巻き上げ、あたしの手から飛び立たせた。
鳳凰飛びし時、全ての徳が齎される。
在の時の抗争で、由岐城は関西一に為った。其れが徳なのかは、判らない。
「嘘や…」
「嘘ちゃうし、鳳凰。」
鳳凰だと八雲は繰り返し、事実掛け軸には“鳳凰”と書いてある。行書体で良く読めないが、“朱雀”とは読めない。
だったら何でや、あたしが知る朱雀は、此の姿をしてんねん。
「嗚呼…?」
頭が、割れる様に痛い。御母ちゃんの在れは、鳳凰やったんか…?
朱雀と思い込んで居た。鳳凰だったら意味が変わる。
在の抗争は“朱雀”に依って始まった。背中に朱雀を背負う女が抗争のきっかけだった。
抗争相手の若頭を、朱雀を背中った女が殺した。死ぬ間際に「朱雀…背中に朱雀しょっとる女や…」と云ったのだ。
其の時、彼方さんに良い思いをして居なかったのが、由岐城。
常々から、在の腐れ外道、こっちのシマ荒らしていちゃもん付けて、消えたらええねん、と皆云って居た。大概仲悪く、同じ酒場に居様もんなら喧嘩に為る程。本来極道と云うのは、余程の事が無い限り縄張りを荒らす事はしない。あっちの若い奴がこっちの若い奴にいちゃもん付けたと為っても、幹部同士の話し合いで決着し、下には一層厳しく注意する。
然し何と云うか、先方の彼方さんは古風な方々やったから、殴り合い上等の姿勢、此方は、力では無く頭を使え、の姿勢なので、彼方さんから見たら、けったくそわるい集団だったに違いない。
殴られても「まあまあまあ」「穏便に話ししましょや」と、掴まれたスーツの皺を気にする輩だ。うちは。
抗争は、丁度良かったのだ。新旧はっきり付け様や、と云う具合だろう。そして勝ったのが、新体制の由岐城。彼方さんは壊滅し、由岐城組は関西一の極道に伸し上がった。
其の抗争の発端、朱雀の女が、そう、御母ちゃんやった。関西で赤い鳥の墨を背中に入れてる女は、由岐城の姉さんしか居ないと。
だから喧嘩に為った。
何で御母ちゃんが彼方さんの若頭を殺したかは知らん。御父ちゃんの命令とは思えん。松山も「親父は、そら非道な方ですけど、無闇に人は傷付けません」と云って居た。
誰も、本当の理由を、知らない。
でも若し、御母ちゃんの背中にあった其れが朱雀や無かったら…。
彼方さんの勝手な間違いで、殺された。
「ちょぉ、電話、したいねんけど…」
「ええけど、大丈夫か?」
「ええ…」
力の入らない足を引き摺り、電話迄向かった。
松山は相変わらず暢気だったが、あたしが御母ちゃんの其れを聞くと、黙りこくった。
「朱雀、ちゃうくて、在れは…」
「御嬢…」
「鳳凰、ちゃうか…?」
「…………はい。」
声が出なかった。
あたしの大事な大事な御母ちゃんは、鳳凰やった。
鳳凰死す時、全ての鳥が歎く。
唯、泣く事しか出来無かった。
鳳凰は空に飛んだ、全ての鳥を後ろに付けて。
「姉さんは、鳳凰と朱雀の違いがよぅ判って無くて…。一度俺が“姉さんの背中の朱雀、ほんま奇麗ですね”“何処で入れましたん”て聞いたら、会長が“朱雀ちゃう、在れは朱い鳳凰や”ゆうてました。姉さん、鳳凰を知らんみたいで、朱い鳥やし朱雀やぁ、思ってたみたいです。」
「そうか…」
「御嬢。」
「何や…」
「向こうの勘違いで姉さんは殺されました。此れは…もう、御嬢が知って仕舞ったんなら隠しません。せやけど。」
決して恨んだらいかん。
松山は云う。
「堅気ちゃいます。御嬢には、極道の血が流れてます。極道の人間は、人を恨んだら最後、夜叉の血が、目ぇ覚ましますよ…」
「松山…」
「姉さん、ゆうてました。御嬢には、うちとおんなし道歩かせたらあかんて。」
朱い鳳凰が、羽を広げる。
「折角、折角八雲さんと堅気な人生歩ける様為ったんです。あかん、絶対。こっち戻って来たら、あきまへん…」
寂しいけど。其れが鳳凰の願いなら、鳥の自分達は従う。
「松山。」
「へ。」
「赤と青て、混ぜたら何色に何ねや。」
「赤と、青、ですか…?」
御母ちゃんの背中にあったのは朱雀では無く朱い鳳凰。御父ちゃんの背中には、青い鳥がある。其れが鳳凰と、あたしは確信した。
八雲が云うに“鳳”は雄、“凰”は雌。
思い出す度、二人の背中の鳳凰が一つに為る。何故が片方しか翼が無かった。
「紫、ちゃいますやろか…。いや判らんな…。ちょぉ、待ってて下さい。」
何やらバタバタと松山は動き、五分程すると「紫です」「紫ぃに為りましたわ」と、絵の具を実際に混ぜたらしい事を報告して呉れた。律儀な男である。
「紫な?」
「へ、紫に為りましたわ。」
「因みに聞くけど、茜色て、赤やんな?」
「赤です、茜色は赤です。」
「八雲て、何色やと思う?」
「はあ?八雲さん、ですか…?黒ちゃいます?胡散臭いから。」
聞こえとるぞ、松山、と後ろから八雲が云った。
「いや、ちゃいます…。凄まんで下さいよ…。青…?すっきりせえへん、青。かなぁ…?なぁんか、ありますやろ。晴れてんのか曇ってんのかよぅ判らん天気。そんな空の色。」
あたしは盛大に仰け反り笑ったが、八雲は「おんどれ松山、己はピンクや」「まっピンクや」と不快を顕わにした。
ピンク色のスーツを着た松山等、滑稽愉快最高の笑い者である。
あたしは赤、八雲は青。
まるで御母ちゃん達みたいや。
あたしの用件は終わったが、八雲は胡散臭い人間から胡散臭いと云われたので大層立腹し、ぎゃあぎゃあ文句云って居た。
「ちょお茜、何処行くねん、さっき倒れたやろ。」
「は…?御嬢っ?御嬢倒れはったんですかっ?八雲…八雲はん…。俺かて、そうずっと笑てる人間ちゃいますよ…?胡散臭い極道やしな。」
「ちゃう、わいの所為ちゃうしな。茜っ」
「ちょこっと出掛けて来るよぉうん。」
「茜っ、あか……もう知らんわ。」
青い空、鳳凰を探す様に白い龍が泳いで居た。そうして暫くすると薄い青色に赤が重なり始め、紫色に為った。
茜雲。
こんな空を、茜雲と云うらしい。
「在の色、在の色や。赤とも青とも見える在の色や。」
朱雀は、赤い。
そうして三ヶ月後、あたしの背中には、紫色の朱雀が悠々と飛んだ。
相手を恨んだりせぇへん、そんな世界に御母ちゃんは生きてたんやから。
死ぬ程痛かった、目茶苦茶痛かった。なんせ、背中一面に朱雀やからな。でも、心はすっきりした。
松山は堅気に為れて嗚呼はゆうたけど、あたしが極道の娘であるのには変わり無い。其れを忘れん様に、御母ちゃんを忘れん様に、あたしは背中に朱雀をしょった。




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