白虎様


何時日本に戻るのかと、連日、妻茜から八雲は問われて居た。軍艦の調査が終わったら、と適当にあしらい、逃げる様に夜道を歩いた。
「逃げなや、自分。」
「逃げてへんわ。見てみぃな。」
追い掛けて来た茜に背中を捕まれ、斜めの体勢で八雲は空を見た。ぎこちなく腕を伸ばし、空を指す。
「御月さん、奇麗やで。」
午前三時にしては驚く程大きな月が空に浮かんでいた。茜には不気味に感じ、帰ろう、そう小さく呟いたが、八雲は茜の言葉を振り切り、林を目指し歩き始めた。
「あかん…、あかんて…。絶対何か出るて…」
後退しているのか前進しているのか判らない歩みを茜は繰り返し、そうして居る内に八雲の身体は飲み込まれる様に、闇の林に消えた。月明かりも届かない場所で八雲の足音は響き、真後ろにある月を一瞥した茜は、意を決し後を追った。
「何や、付いて来たんか。」
「だって…、怖いわ…」
「付いて来る方が怖いわ。」
変な奴、と八雲は笑い、反響した笑い声が獣の唸り声に茜は聞こえた。
林の入口付近は月明かりが入ら無かったのだが、林中は上から光が入り、青白い光が所々見受けられた。八雲が動く所為で木々から粉が舞い、光を受け光っている。其の頃には茜から恐怖は消え、幻想的とは此れかと納得していた。
「此の花何?」
一連に咲いた白い花に茜は気付き、しゃがんで眺めた。
「さあ、何やろな。わいは考古学者で植物学者ちゃうからな。」
煙草を咥え、横目に茜を見た。
真直ぐ前を向き、どれ位で抜けれるか考えたが、八雲に抜ける気は無い。小さい林ではあろうが、抜ける頃には昼。其処から又半日掛け戻る体力等八雲には無い。
「ふぅん、可愛ぇなぁ。」
指で花を弾き、其の揺れに茜も揺れた。
こんな夜中に何をしているのだろうと八雲は今更思ったのだが、茜が楽しんでいるので戻ろうと云えず居る。
煙草を踏み消し、しゃがむ茜に覆い被さり花を見た。
「ほんまや、可愛ぇ。」
「重いて…」
「ええやん、潰れへんて。茜の逞しい体格なら。」
顎に頭突きを食らい、顎を押さえ悶絶した。逞しい、とは程遠い細い腕を八雲に当て、茜は喚いた。
「御免、御免て…」
「嫌味か?嫌味か?貧相な身体に対する嫌味か?」
茜は自分の体格に不満がある。唯ひょろりと真直ぐな、胸も括れも尻も無い体格が嫌で堪らない。色気とは無縁の体格と性格。然も其の体格に為った原因が、栄養が足りないからと来る。詰まりは八雲の所為なのである。
道に迷え、と茜は八雲に背を向け、来た道を戻り始めた。然し、茜は八雲の後を追って来ただけで、正確な道を知らない。道があれば真っ直ぐ行けば良いが、生憎道の無い道を八雲は来た。
「あかんて…。茜が迷うで…」
腕を捕まれ、茜は不満そうに唇を突き出し見せた。
「嫌い…」
「御免て。」
「謝りなや。」
泣きそうな茜の目に、顔の前で両手合わせ、八雲は頭を下げた。
「御免、ほんま御免為さい。」
「ええけど…」
「許してくれる?」
「うん…」
然し茜は目を逸らした侭、不満そうに唇を突き出している。其の突き出る唇を親指で八雲は遊び、少し膝を曲げ、額を付けた。
「如何やったら直るのぉ?此の口ぃ。」
「もう帰ろうや…。怖い…」
「ほんなら、其の前にちゅうしてえ?」
唇が擦り合い、茜が頷く前に八雲は口を塞いだ。枝の折れる乾いた音と息使いが闇に飲み込まれた。
「大好きやで、茜。」
背中に大木の硬さを感じ、擦れて痛かったが、八雲の熱い手に深く息を吐いた。片足は八雲の腕に掛けられ、爪先立ちで八雲を受け入れた。
幻想的だと感じた青白い世界は熱を蓄え、本当にそうだと感じた。
此の闇の様に茜は八雲を飲み込んだ。抜け出せないのでは無く、抜け出たく無いと思う闇に八雲は容易く身体を預けた。
「濡れ過ぎ…。気持ええけどな…」
背中の痛みと快楽が強くなり、縋る様にしがみ付いた茜は短い呼吸を繰り返した。項垂れた首からうっすら覗いた背中の赤さに八雲は驚き、背中を支えた。
此の暗さで判る程の赤さ。相当である。
けれど八雲は仕舞ったと思うだけで行為は続けた。
「何や不思議や思たら。」
「云いなや…っ」
「ほんま、痛いの好っきゃな、茜。」
「煩いわっ…」
睨み付けてやろうと八雲の肩から額を離した茜は凍り付いた。
目の前で何かが光ったのだ。
一気に快楽と血の気が引き、声の止まった茜に八雲は首を傾げた。
「茜?」
「何か…居てるわ…」
「え?」
馬鹿な、と振り返る前に八雲も全身縮み上がった。
茜は目の前の光を見詰め、八雲は聞こえた音に耳を向けた。きゅーきゅー、と聞いた事の無い弱々しい音が聞える。
「一寸、抜きぃな。」
八雲の頭を叩き、身体を離すと光の見えた方に足を向けた。八雲の聞いた音は後ろから聞こえるのだが、反響だろうと茜に続いた。
闇から見えた塊に二人は首を傾げた。
「豚?パンダ?」
「ちゃうて…虎や…」
「虎か…、パンダちゃうんか…」
虎っ?、と漸く其処で弱々しく鳴く塊が、在の猛獣の子供だと理解した。
「一寸待って…、て事は近くに…」
「大本が居てるわ…」
八雲の読みは当たり、真後ろに獣の荒い息遣いを感じた。恐怖で振り向けず居ると足元が揺れ、倒れる音が聞こえた。長い舌をだらりと垂らし、荒く呼吸を繰り返す虎は真赤に染まり、毛は血で固まっていた。子供の虎が其れに気付いたのかよたよたと倒れた虎に近付き、きゅーきゅーと鳴いた。
「豪いこっちゃで…」
子供を抱き上げ様としたが、触るなと吠えられ、八雲は怯んだ。然し、茜は其れでも子供を引き離した。
「死なすんか?威嚇して自分の子供迄死なすんか?大丈夫や、何もせん。」
真赤に染まった虎の目は茜を睨み付けていたが、其の言葉に目を伏せ、呼吸を弱くして行った。茜は座り込むと虎の頭を持ち上げ、自分の膝に乗せた。
「痛かったなぁ、痛かったなぁ…」
抉れる肩を触り、べっとりと血の付いた手で顔を触った。
「別嬪さんやなぁ、御母ちゃん。」
腕の子供の虎に話し掛け、八雲を見た。しゃがんだ八雲は虎に触れ、我慢せえ、と一言云うと両腕を持ち上げ、自分の肩に乗せた。信じられない事に百キログラム超える虎を八雲は負ぶり、地面を引き摺った。
「八雲…?腰、抜けるで…」
「話し掛けなや…」
汗なのか脂汗なのか判らない汗を垂らし、未だ日も登らぬ早朝に虎を担ぎ歩いた。引き摺られる足跡に血が重なり、此の虎が助からない事を茜は悟った。八雲とて、此の虎が助かるとは思って居ない。
薄明るく為った頃家に着き、地平線を見た八雲は薄く笑った。
「御母ちゃん、太陽やで。」
顔に当たった光に虎は眩しそうに目を開け、ゆっくりと太陽を見た。
「死ぬなら、太陽の下で、子供の顔見て死にぃな。」
在の林の中では顔が見えない。八雲は其れが不憫と感じ、態々二時間近く掛け自宅に連れた。
「ちゃんと御母ちゃんの顔、覚えときぃや。」
八雲は虎を下ろし、地面に座り込んだ。悲鳴を上げる身体は震え、背中は真赤だったが、倒れる母親に寄る子供の姿に、其れでも良いかと頷いた。
きゅーきゅー鳴いていた子供が、くるくると鳴き出したのは一分もしない内だった。
「ええ御母ちゃん、持ったな…」
茜の言葉に虎が死んだのを確認した。




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