清涼求めて


“暑い”等と云う一言では到底片付けられない温度だった。人間の八雲達ですら言葉が出ない程暑い、白虎に至っては死ぬ寸前、寝るのも暑い、動くともっと暑い、如何する事も出来ず一番涼しい(であろう)風呂場で半目の状態で一日寝転んで居た。
――お父ちゃん…死んでまう…
「白虎…堪えるんや…、此れが都会や…」
東京の尋常で無い暑さ。車も疎らな住宅で此の暑さ、大通りは地獄である。ビルの隙間に熱風が篭り、濛々と排気ガスが其の熱風を吹き上げる。大阪の田舎からソ連寄りの中国に渡り、暑さ等余り考え過ごした事は無い八雲達には堪え難い試練だった。
神戸は比較的発展した都市だったが、こんな暑さは知らない。茜も暑さに参り、一心不乱に氷を砕く。其れさえ八雲には暑苦しい。
「暑い、暑い、暑いねん…ッ、阿保かッ」
「喚くな…暑い…。茜の声、暑苦しいねん…」
背中はぐっしょり汗に濡れて居る。一時間置きに時刻を知らせる柱時計がぼぉんと、八時を知らせた。
「はぁあ…」
午前八時、其の鐘の音は地獄を刻む。
「嫌ぁ…、嫌やぁ…」
ソファにしがみ付き、聞き間違いでは無いか、頼むそうであって呉れと八雲は懇願した。
「八雲はん…、出勤やで…」
「嫌、嫌ぁ…」
浴衣はぐっしょり濡れて居る。たった一枚の布、其れだけでもこんなに暑い。
「軍服何か燃えたらええねん…」
此の暑さの中、幾ら薄手とは云え長袖長ズボンの軍服は堪える。基地迄一時間、果たして此の地獄の行軍を生き抜く事が出来るか。
「今日行ったら、二週間夏休みよん、八雲…」
「せや、せやぁ…」
此の暑さに参って居るのは八雲だけでは無い、加納も又、参って居た。二日前行き成り、暑さに業を煮やした加納が「来週の月曜から二週間休みます」「海からの照り返しが尋常では御座居ません」「各隊五名づつ待機で残し、隊長は体力温存為さい」と達した。
今日行けば明日から休み、軍服を着なくて済む。今日一日、今日さえ我慢すれば、盆が過ぎる…。
然し其の気力が、暑さの前では奮い立たない。
気合い入れ。
茜の砕いた氷を桶に浮かせ、頭から被った八雲は気合い起こし、根性で軍服を着た。
暑い、既に汗が吹き出る。誰だこんなデザインにした大馬鹿野郎は。ベルトは門の前で締める事にする。
「今日も格好良い、八雲さん。」
「大きに…」
ちろり。
風呂場で寝て居る白虎を覗いたが、瞬間頭を振られた。
――嫌…嫌やッ、絶対嫌ッ
「あほんだら白虎、お父ちゃん死ぬがなッ、立て、立てや白虎ッ」
――嫌ッ、絶対立たへんッ、一人で死ねや、糞親父ッ、道連れさすなやッ
「止めてぇ…ッ、止めてんかぁ、八雲ぉ…ッ。白虎の肉球焼けるがな。」
――お母ちゃん、お母ちゃん助けて。此の親父、畜生やでッ
無理矢理白虎の腕を引き、風呂場から出そうとする八雲、嫌がる白虎の首をしっかりと抱き、絶対に風呂場から出させない茜。
「出ろや…白虎…、暑いねん…ッ」
虎の本気に人間如きが敵うか、いいや敵う筈が無い。
――やぁ…、嫌ぁ…
「ええ加減にせぇや、八雲ッ。白虎は乗りモンちゃうねん、殺す気かッ。己だけ死ねやッ」
――噛み付いたろか、人間がッ。虎舐めなやッ
茜の咆哮と、白虎の咆哮は同時だった。家全体に激昂し猛獣の咆哮が響き渡り、其の威力と云ったら無い。目の前で為された威嚇に八雲の身体は一気に寒く為り、ずるりと腕が抜けた。
――足らんか?未だ判らんか?判る迄なんぼでも吠えたるわ、白虎様舐めなや、丸眼鏡ッ
咆哮一つ、床に転がった八雲に白虎は伸し掛かり、顔面に其の牙を向けた。白虎の声で頭がガンガンする。其れで無くとも、猛獣の下に居るのは怖い。
暑さは何処へやら、がたがた奮え出した八雲は頭を抱え、縮まった。
「すんまへん、すんまへんッ、阿保な事ゆうてすんまへんッ、ええもうなんぼでも涼んどって下さいッ」
――判ればええねん。
ふん、と猛烈な鼻息送り、満足した白虎は又風呂場に戻り、茜の足に頭を乗せた。
「よぅ遣った、よぅ遣ったで白虎。其れでこそあたしの娘、由岐城の女子(オナゴ)や。」
暑いんじゃないのか、だから御前達は風呂場で涼み、怒りに任せ氷を砕いて居たんじゃ無いのか。ひしと抱き合い、うるうる云うのは暑いだろうに。
「八雲さあん、八時半よ?ええのん?」
「うわ…ッ、能面で又涼むや無いかッ、ほんなら行くし。」
「行ってらぁ。」
ばたばたと足音立て、必要な物全て引っ付かみ八雲は家を出た。
――忙しない親父。
「せやなあ。んふふ。」
――お母ちゃん。
「んー?」
――暑い。
「御免…」
此の娘の冷たさ、冬将軍に近い。くすんくすん泣き乍らソファに座り込む茜を白虎は溜息混じりに眺めた。
「…汚な…」
――お母ちゃんも薄情な…
八雲の脱ぎ捨てた汗塗れの浴衣を向こう方面に投げ捨て、ソファに寝た。
「暑いなぁ、暑い…」
そうした呟きは、小さな電話のベルに消された。




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