松山さん2 ―冷たい華―


嚏が止まらん。何処の誰や、わしのえげつない噂しとんのは。ほら云うやないか、誰かが噂したら嚏が出るて。
島谷か?
京介か?
若しや御嬢か?
御嬢に何ぞあったんちゃうやろな。
あたしを誰や思てんの!由岐城や!由岐城茜や!夜叉と龍が居てんのよ!
とか凄んでるんちゃうんか…?
困るなぁ、其れやったら。
幾ら御嬢とは云え、もう斎藤ですよ、由岐城関係無いんちゃう?
若しや、若しや…。
「御困りですか?荷物、持ちましょか?」
着物を鉢切らんばかりの重そうな臀部を突き出す、左右に荷物下げた、其処の熟女基淑女!貴女ですか?此の松山、熟女基淑女の為なら命(タマ)張る覚悟ですよ。
何だ随分と不自然に歩いて居ると思ったら、前に小さな子供が居た。自身の腰に巻き付けた紐で前方歩く子供の身体を繋いで居た。両手が塞がって居るので手が繋げず、だからと言って背負う程小さくは無く、又此の年齢は御嬢もそうだったが、歩ける事が嬉しく抱かれるのを嫌う。子供の目に映る全てが興味の対象で、不思議で、世の中が面白く見える。が、興味とは即ち危険。揺らぐ炎に興味を持ち手を伸ばす…、其れと同じ。熟女基淑女は、危険を回避する為ずっと昔にそうして居た様に、自分から紐を伸ばし我が子の命を繋いで居た。
犬の散歩みたい…と云えばそうだが、違う、此れは肉眼で見える胎内だ。
熟女基淑女は行き成り湧いて出た声に驚き、前に前にと進む子供の力にバランスを崩した。
「お母ちゃん、危ない。お母ちゃんが怪我したら意味無い。」
胎児は、母体あってこそ。
支えた肩には程良く脂が乗って居る。瞬間駆け巡る計算、推定年齢四十、ほほう、ええモン着てるやないか。其の頬から滲む色気、昨日旦那と何番目かを仕込んだな?
「坊主、一寸待ってんか。お母ちゃんよう歩けんのな。」
子供は案外素直に止まり、わしをぽかんと見上げた。
「大きに。マサアキ、こらマサアキ、ほんま待ってんか。」
一瞬、自分の名前かと錯覚した。熟女基淑女の声は、何だろう、年の関係か、記憶する母のと似て居た。年と其れに重なる疲労、わしの母も、何時もこんな疲れた声を出して居た。
「坊主、マサアキぃ云うんか?」
「あい。」
丸い顔と頭を落ちる程縦に振り、にぱっと笑う。
「ほんま。わしもマサアキぃ云うねん。」
「あらほんま?」
「ほんまほんま、此処で嘘云うてもしゃーないわ。」
「せやな。」
「奥さん、マサアキです、覚えとって下さい。」
「あい確かに。」
頭を下げたわしに苦しゅうないと云う風に熟女基淑女は笑い、ちょいと伸びる紐を引いた。子供は寄り付き、片方空いた手でしっかりと子供の手を握った。
茜色の空、白い雲が段々と影を無くし、代わりに星が見え始めた。ぶらぶらと揺れる腕と童謡。
烏何故鳴くの?何故、泣くの…?
何でかな。
鳳凰死す時、全ての鳥が嘆く。
泣いても、ええやん。
かわええ子ぉが、居てんのよ。
「頭…?」
「なんや、御前の女か…」
光景に和み、行く道だったのもあり二人を家迄送った先の出来事だった。玄関先に現れた馴染みの顔、京介の雑用、の雑用、名前は何だったか。見覚えはあった。
「いや、ちゃいますよ。此れ母親ですよ。」
「母親か、旦那は。」
大概此方の世界に足突っ込む雑用は両親が揃って居ない場合が多い。此奴も例に習ってそうだった筈。
「親父ですか?さぁ、おかん。」
「あんたの父親?知らん知らん。そんな二十年以上も前の事覚えて無いわ。マサアキの父親も覚えて無いのにやな。」
「あっはは、まぁそんな具合ですわ、頭。」
「ええ家族。」
皮肉でも何でも無く本心。父親不明の異父兄弟、なのに坊主も奴も母親迄も明るかった。
熟女基淑女は確かに好い女だった。
数分前迄も並々成らぬ色気を持って居たが、理由が判った。
水の女。
だから疲労さえも色気に変わって…いや変えて居た。
「ほぉ…何処のママや。」
濃紺の紬に白い名古屋帯、項に張り付く後れ毛を香で押し付け乍ら熟女基淑女はわしを見た。
「堪忍、クラブちゃうの。ちっこい飲み屋。由岐城の若頭はんが御見えんなる場所ちゃうの。」
「ええやないかぁ、行く行く、仰山金落とすし。」
「落として貰う程の御酒無いのん。全部薄めてんねんから。」
奴はゲラゲラ笑い、坊主の身体に巻き付く紐を解く。
「暴利貪っとるなぁ。」
「せやないとよぅ生きてかれんの。」
ぱちんと小振りだが上品なイヤリングを耳に嵌め、草履を出した。
「トシアキ。」
「へい。」
「マサアキ、お母ちゃん行って来るしな、ええ子さん、ええ子さんよ?にぃにの云う事よぅ聞くんよ?」
「あい。」
坊主は又笑顔で頷き、其れ切り母親は見なかった。普段は其れで母親の出勤を見送る二人だが、今日は、今日ばかりは奴迄外に出た。
「母が御世話掛けました、頭。」
「助かりました。」
本来ならわしが荷物持ち玄関先に現れた時点で奴は土下座に近い礼を云いたかっただろう、熟女基淑女も其れは同じだ。息子が世話に為る組の幹部も幹部の人間だったのだから。でも二人は自然に会話をした、わしも理由が判ったので便乗した。
坊主が居たから。
幾ら未だ世の中が判らない子供とは云え、異様な光景、其れを見せる訳にはいかない。
十二分に把握するわしは何も云わなかった。
「息子迄もが御世話ん為って。慌しい事でほんま済みません。」
「ええて、ほんま。此奴がそうやなくても助けてたしな、ほんま。ええて、な。」
「有難う御座居ます、頭。」
「そう思うんやったら、お母ちゃんの買い物位付き合うたれ。」
「…心に。」
「ほんならな。」
奴の頭は、チクチクして居た。其の感触は、父親の頬を思い出させた。
「あ…ッ」
「風邪ですか?」
「いや…ちゃう。さっきから嚏止まらんねん…」
「ええヒトが、松山さん待ってんのとちゃうの?」
熟女基淑女の色気、嚏が止まらん。涎も止まらんわ。




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