松山さん


昨晩飲んだワインの瓶が床に転がる。瓶が床で寝る迄は、確かに絨毯は純白だった。起きたら、何か知らん、何時模様替えをしたのか、酔って絨毯でも買いに行ったのか、赤みを押さえた日の丸の絨毯に為って居た。
幾ら右翼派極道でも、絨毯を国旗模様にする程では無い。
そして知らん間に、極上の美女が横に居た。
なだらかな曲線は透き通り、シーツの濃紺を全身に纏い、怪しからん色気を朝から振り撒いて居る。
三人は同時に寝れそうなベッド、美女をベッドから落とし、昨晩一緒に相手した瓶の横に転がした。
「頭、十時ですけど。」
瓶と美女――グラスを手にした京介は、布団に潜り込もうとするわしの肩を掴んだ。
「アホか、今日は仕事無いねん…、夕方迄寝るのぉん…」
「ほんで、何しますの。」
「ワイン飲んで、明日に備えるんやないか…」
「ま、其れでもええですけど。」
わしは昨晩、ほんま何をしたんや。絨毯買う序でに犬でも買うたんか。
十五畳程の寝室に響く足音。どどどどと狭い間隔で近付いて来る。
「まぁつ山あッ」
ドアーが豪快に開く音をしなかった所を思うと閉めて居なかったに違いない、ぼうんと、身体が跳ねた。
「うおお、むっちゃ柔らかあいッ」
ぼうんぼうんぼうん。
ワインが瓶の中で揺れるみたく、甲高い笑い声と一緒にわしは揺れた。
「恭子嬢…、何してますのん…」
ベッドの振動を利用し、器械体操迄始めた犬にわしは向いた。
「あーそーぶぅ、遊ぶねんッ」
「はあ、如何ぞ、好き遊んで下さい、俺は寝てますから…、京介…」
「へ。恭子嬢。」
「いーやーッ、松山と遊ぶねんッ」
「もう勘弁して下さいよ、俺、眠いんですよ…、頼むし喚かんで…」
二日酔いでは無く、此れは本気で眠かった。会長から連絡あったのは五日前、聞いた瞬間わしの身体は粟立った。興奮と歓喜が泥水みたく混ざり、口の中は干上がった。
――ほんま…ですか?ほんまに…
――ほんまや。
一枚の手紙を受け取り、わし等を激高の渦に浚った割には随分と淡泊で感情の無い内容だった。
――斎藤はんトコ、もう関与せん云うてるし、わし等だけで行くからな。
――へ…へえ…ッ
声が裏返る。普段はそんな、感情一つで心情乱す事無いだけに、裏返った声での返事に会長は太い眉を上げ、うっすら笑った。
――マサも、人間やったな。
――当たり前ですやん、特に…特に……
言葉は詰まり、口元が歪み始め、鼻の奥に普段知らぬ熱さを覚えた。慌てて息を止め、深く鼻から抜き乍ら頭を下げた。
其れから昨日迄、東京行きの手配、東京での手配、手紙に記される住所を調べる事に費やした。
――青かな、うん、青や。
五年前の記憶を引き摺り出した。無理矢理に、南京錠迄掛けて、絶対に思い出さない努力をした。開ける日が来る迄、会長が鍵を渡して呉れる迄、こびりつく記憶を醜い現実で上塗りして来た。
――喜んで、呉れるかな…
青い宝石て奇麗、海みたいで…。
鼓膜に響く声に涙が出そうに為った。周りから見たら、こんな超合金みたいな男が宝石を物色して居る姿は、クラブの姉ちゃんか情婦かにで、不気味かも知れない。然も桁が違う。贔屓の女に送るには高価過ぎる、ならば本命か。店員の目は痛いが、見れるであろう笑顔に気に為らなかった。
昨日は、結局朝の四時迄接待して居た。其の間ちらつく顔、記憶、なんや機嫌宜しんちゃいますか?等と指摘迄受けた。
――そら機嫌ええですよ、ね、頭。
――黙っとれや京介。
――松山はんが喜ぶ…ははん、ええ女なんでしょうな。
生温い温度残す日本酒を舌の奥で蕩かせ、序で顔面も、いかんと思い乍らも緩んだ。思春期の男が好きな女を見た時の様な、恥ずかしさと嬉しさ、興奮が調和するだらし無い表情が顔に表れ、瞬間クラブの姉ちゃん達が、可愛いとからかった。
――うっさいうっさいッ、黙れやッ
――いやあ、耳迄真っ赤ッ
――わしをからかったら地獄見るぞッ
――明日地獄見ても、今の一瞬が極楽なら、わし等は其れでえんちゃいますの?な、松山はん。いやほんま、怒らんでな?可愛えよ。昔みたいでな。
人前で照れた事等、わしが記憶するには相当昔しか無い。其れこそほんまに十代の青臭い時で、羞恥に声が荒がり始めた。
――うっさいうっさい、酒全部持って来、ぐでんぐでんに酔って忘れるわッ
そして帰宅したのが五時。其処から眠たがる京介を無理矢理付き合わせ、絨毯を買いに行き、犬迄買うて、気付いたら高く為る太陽の中で起こされた。
犬――恭子を宥める京介の声と六時間程前の記憶を己の溜息で消し、ぼうんぼうんと跳ねる恭子の小さな腰を押さえた。
「埃舞うんで、跳ねるの止めて下さい。」
「ほんなら一緒寝るぅ。」
ごそごそと布団の中に入り込み、唖然とする京介に頷いた。ひょっこり布団から顔を出し、後ろから抱き締めて寝返りを打った。一つ教えると、わしは全裸だ。
「あかん、あかぁん。頭、其れは犯罪ですよ…、其れはほんま駄目な事ですよ…」
京介に向いた背中、わしは其れを指摘した。
見せる訳にはいかんだろ、と口だけ動かし、理解した京介は足元で丸まる浴衣をわしの腕に通した。
「よっし、起きます、起きますよ、恭子嬢。太陽お早うsu-u-u-u-u-n!」
「起きるぅ。お早うサーンッ」
ベッドに座り、頭を振るわしに飛び付いた恭子をおんぶした侭リビングに行った。
京介は、完璧な男。
透ける水色のテーブルクロースを掛けた白いテーブルの上に、珈琲が並ぶ。朝にしては重たい、昼にしては軽い食事。恭子の分しか無い。珈琲を飲むには大き過ぎるコップに珈琲を注ぎ、オレンジジュースを飲む恭子を視界に新聞を広げた。
響くベル。京介だけ動き、恭子は食事をし、わしは新聞を読み続けた。
花の匂いが、珈琲で占領する鼻腔に絡んだ。
「冷華か。なんやねん、朝っぱらから。御前は夜見るもんで、朝から見たない、派手過ぎんねん。」
「お早う誠昭。お早う恭子ちゃん。」
ウィンナーを口一杯に頬張る恭子の頭を、真っ赤な爪と似た様な色した宝石嵌め込む指輪した手で撫でた。そして、今は朝かな、とウィンナーを飲み込む恭子に聞いた。
「紅茶ですね?」
聞いた京介に冷華は身体を捻り、恭子の横に座る。長い爪で器用にパンを掴み、ナイフでバターを塗る。食べるのかと思いきや、冷華の性格は良く判る、唯単に恭子の世話をして居るだけ。紅茶を用意座る京介は、恭子の世話を焼く冷華、食べる恭子、全く関心無く新聞を眺め珈琲飲むわし――テーブルを囲むわし等を見て、唯の親子みたい、と葉を蒸らした。
硝子の奥で浮上を繰り返す葉、ゆっくりと赤い色を滲み出し、冷華の長い睫毛が京介に向いた。
「見える?」
「見えます見えます。」
「だって誠昭、結婚しましょうか。」
「おー、ええなあ。京介、極道止めて使用人に成れや。冷華は恭子の世話以外何もせんよって、家事全部しろや。」
「犬も飼いましょう。」
掠れた、色気ある声は、さんさんと太陽の光を溜めるリビングには不釣り合い過ぎて笑えた。
「抑、御前、何しに来たんや。」
「遊びに来たの。」
「今日は出掛けんぞ、明日東京行くしな。御前と出掛けると、金掛かってしゃーないねん。」
「じゃ恭子ちゃんと遊ぼ。公園行こうね。鞦韆乗ろうね。」
赤い紅茶の入るカップを置く京介にも、聞き間違いかと新聞から目を離したわしにも、冷華は奇妙な程人間らしい顔で向いた。
「公園…?冷華さんが…?」
「いやいや、何の冗談やねん。鋭利なヒールで砂場に穴開けに行くんか?」
第一、無駄に出した乳と全身から垂れ流れる色気を休日の父親達に見せに行くのか、折角の“休日”に。下手したら開店休業、廃業寸前状態かも知れないのに、満員御礼いらっしゃいませー状態に為ったら如何責任取る。御前は無駄に色気しか無いのだから。
公園の土に鋭利なヒールで陥没工事、序でに御前を突貫工事。
三十半ばの中年親父は、朝から絶好調で案配宜しい。
「オッサンが休日返上してまう、止めぇ。」
「誠昭って、顔と違って、中身は本当、大阪の中年親父其の物よね。」
「おおそうじゃ、悪いか。頭ん中は…」
「頭。」
「…夢が一杯。愛も一杯。金と仁義だけが友達さあ。松山の半分は、忠誠心で出来て居ます。」
京介の咎めに白々しい声色出し乍ら、読んで居ない頁を捲った。冷華はカップで隠す口元から笑い声を漏らし、残りは何よ、と甘い溜息を赤い液体に溶かした。白々しく「無論、冷華、君への愛だよ」と声を作って云って遣った。普段はがなり立てる所為で声帯潰れ掛けて居る声だが、一寸調節すると声だけで女を落とせそうな程“声だけ色男”に為る。
落ちないのは冷華だけである、落とす気端から無いが。
証拠に十歳の恭子ですら「何其の声、むっちゃ格好ええ」と食事の手を止めた。
「後十年したらなんぼでも囁いたげますよって、早食べ終わって下さい。」
「十年ね。恭子ちゃんは何んな女の子に為るのかしら。」
夜とは違う顔、其れはまさに、娘の成長を楽しみに待つ母親の顔だった。
「冷華さんか、アカネェみたくなんの。」
京介の目が、カウンターを拭く布巾から離れた。
「あら、私?」
「むっちゃ奇麗やから。」
「ふふ、有難う、恭子ちゃんも可愛いわよ。」

――今日もお母ちゃん世界一別嬪やな、茜は世界一可愛え。ほら見てみぃ、鏡にど豪い別嬪が二人もおる。
――んふふ。

頭を締め付けた記憶は指に流れ、新聞紙に皺を作った。
サラダ迄奇麗に食べ上げた皿を京介が洗う、そんな事迄する必要無いのに恭子の口元を拭く冷華。
鍋の錆は落ちるのに、記憶と云う錆は何故落ちないのか。燃やせれば何れ程良いか、灰にも出来ず炭と化す。
十年、十五年、二十年以上前の記憶は、年を取る毎に頑固な錆に為る。思春期の淡い恋心等、大事に残す必要無い。そう思うのに、其の時位しか人間で居た試しが無い。
生まれた時から猜疑心と警戒心しか無く、父親の仕事に恨みを抱いた。他人を騙し、地獄を対価に絶望を釣銭に、背中に天草四郎を背負って居た父親。
あれ程嫌った父親の道を歩く自分、由岐城の盃で酒を飲む事に抵抗さえ無い自分、年を取る程に父親に酷似する自分――自分の全てが嫌いだった。
由岐城の人形である事に不満は無い、寧ろこんなわしですら誰かの役に立てる事が嬉しくて堪らない。だから、喜んで尾を振った、喜んで他人を陥れた、喜んで、父親に似た。
眉間の傷に微弱の痛みが走った。
背中の龍が疼く時、決まって傷も疼いた。
眉間に刻み込まれた人間として生きた証を押さえるわしに京介は向いた。冷華は恭子に見えない様自分に注意を引かせ、「着替えて来る」とわしは立った。
「痛みます…?」
「あかん…、豪雨が来よるわ…」
大気圧の関係で、頭痛や身体の不調を訴える人間が居る。わしも全く其の型に当て嵌まり、眼球奥に鋭い痛みが走ると、決まって空は鼠色に代わり、どっしり重たい雲を運んで来る。そうして悲鳴の様な雨を地面に叩き付ける。
「快晴やぁ、云うてたのに…」
事実、チャコール色のカーテンの隙間から見える空は真っ青で、雲さえ無い。太陽は熱い程。
判っている、どっしり重たい雲が、何を意味するのか。其れは屹度八つに連なり、わしを不愉快にさす。
此の五年、一日も忘れた事は無い。御嬢の顔は忘れても、彼奴だけは忘れなかった。
「御帰り為さい八雲さん、待ってましたよ……」
本日の東京は晴天、雲一つ無い清々しい一日でしょう……。




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