二束三文の対価


二十歳の誕生日に、田舎を捨てた私は其の館に足を踏み入れた。
桔梗館。
ちゃんと名前があるのに、世間は其れも知らず、知っているのだが俗的に「娼館」と呼ぶ。
私の実家は、とても裕福とは云え無かった。父は禄に働きもせず、毎日酒を飲んでは母や兄に暴力を振るっていた。其れに何も云わない母に、嫌気の差した兄。私も殆呆れ、田舎を捨てた。若し此れに、弟か妹が居たら、私は考え直し、田舎に居たかも知れない。けれど居ないので、肺を患う兄と母を見捨て、家を出た。電車に何時間も揺られ、東京に来た。
当然宛て無く出て来たので、住む所は疎か、其の日の食料を買う金さえ無かった。
金は全て、東京行きの切符で消えた。何故東京にしたかは判らない。別に神戸や其れより西でも良かったのだが、東京でぎりぎりだった。だから、だと思う。
雪が無い場所が良かった。
服はある。持っていた服全部持って来れる程、実家の貧困さを知る。
訛りの無い言葉に、私は怖くなり、けれど帰る金は無い。
熟々自分は馬鹿だと思った。
腹は減り、足は痛くて、荷物は重く、散々な私は、桔梗館を見付けた。三階立ての洋館だった。奇麗で、私は足を動かす事が出来無かった。
其処が、娼館だとも知らず。
ぼう、と見ていた私を、其処の母様が見て居た等、知らず。
暫く見て、気の済んだ私は、又重い鞄を持って足を進めた。
「ちょいと御待ちよ、色白美人。」
背中から、甘い声が身体を抜けた。
「見るだけ見て、終わりかい?」
私は振り返り、息を飲んだ。
女優かと思う程美しい女。田舎では絶対見る事は無い。
私は生まれて初めて見る美しい生き物に声を無くし、鞄を落した。女はそんな私を鼻で笑い、ヒールを響かせ、甘い香りを私に教えた。
「あんた、家出かい?」
云わなくとも判るだろうに、一々聞いて来た。私は小さく頷き、実家の臭いがした。女とは、全く違う。甘い、等とは程遠い埃臭い臭い。
恥ずかしかった。
「然しまあ、随分とみすぼらしいねぇ、あんた。」
持っていた服の中で一番奇麗な物を着たのだが、みすぼらしい、の一言で片付けられ、羞恥に侵された。
私は俯いた侭、顔を上げる事が出来無かった。こんな自分とは正反対の生き物を直視する事等、今の私には出来無いのだ。
「だんまりかい。」
「いえ…あの…済みません…」
たった其の短い言葉さえ訛っている私。言葉等、交わせる訳無かった。
「其の訛り…あんた北かい?」
汚い、に聞こえた私は末期だと思う。其れ程私は、苛まれていた。
「秋田…です…」
「秋田…。嗚呼、だから色が白いのかい。」
白いと云った其の女の手は、私よりずっと白かった。細い指が私の汚い手を握り、引いた。
「行く所無いんだろう。」
素直に頷いた。
「だったら、此処に来れば良い。」
館を見た。私にしてみたら、異国の城に見える館。尤も、見た事は無いけれど。
迷っている私を察したのか、女は勝手に話し出した。
「此処に来れば、寝る所と御まんまには困らない。金が欲しけりゃ、手に入る。」
何とも、魅力的な誘い文句だった。そんな魅力的な話には大体、いや絶対に裏があるのだが、今の私には、気に止める物が無かった。
だから、女が導く侭に私は桔梗館に足を入れた。
私が娼婦に為った理由。
靴を脱いで、眠りたかった。
其れだけ。




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