幸福な空間


指が身体に這う度、女は思い出す。初めて男に抱かれた時の事を。男は、あの時から何も変わらない。女も、変わらない。変わっているのは、愛の深さ。身体を重ねれば重ねる程、重いものに変わり、互いの身体を圧迫した。
其れは、とても心地良い圧迫感。
何処にでも居る様な、客と娼婦。
切ってはいけない線を、此の男は切り、女は其れを手繰り寄せ、自分の小指に結んだ。其れが果たして、赤だったか。誰にも判らない。黒だったかも知れない、紫だったかも知れない、若しかすると、無かったのかも知れない。縦しんば偽りだったとしても、女にとっても、男にとっても、幸福である。
切ってはいけない線を切った時、客と娼婦から、男と女に変わった。
愛と欲を貪り合い、求める侭に本能に従った。
此れは、偽りの幸福等ではない。確かに存在する、真実の幸福なのだ。
其れを互いに判り、貪った。
果ては、何処にあるのだろうかと考えたが、無意味な事と判り、止めた。
もう充分だと嘆きたくなる程貪り合っても、又日が過ぎれば貪り合う。思いは肥大し、圧迫し、重い。思いを欲に込めた時、女は幸福の息を漏らし、男は幸福を与えた。
「和臣さん。」
枕に顔を埋めていた女は、艶めいた余韻を残す頬を見せ、男に云った。
「痩せたわね、又。」
男の細い手首を掴み、自信の唇に付けた。
「痩せたか?」
普段吊り上っている目が、柔らかく垂れる。女は其の目が好きだった。首筋の、汗で張り付いた髪を払い、男は女の細い指が絡まる手首を見た。
云われてみれば、何だかそんな気がした。
「少し前迄は、手が回らなかったのよ。」
親指と中指が回る手首を男は見詰め、息を吐いた。
「そうだったか?良く判らないよ。雪子の手が大きくなったとも考えられるだろう。」
「成長はとっくに止まりましたよー。其の内、貴方、骨だけになったりして。」
笑う女。其れが後に現実になる等、女は知らなかった。男も、知らなかった。ずっと此の幸福の中に居れるものだと、二人は信じていた。
そんな想像も出来ない残酷な未来を二人は微塵も考える事無く、幸福を知る唇を重ねた。
「さて、娘は出来ただろうか。」
男は布団の上から女の腹を擦り、笑う。
「さあ、其れは来月の御楽しみよ。」
「又双子だと良いな。男三人に、女二人。良いバランスだ。」
「気の早い人。もし、娘が一人で出てきたとしても、又生んであげるわよ。」
男の細い顎を触り、女は幸福の息を漏らした。
其の息の教える事。
女は、翌月月物を覚えなかった。男が望んだ事をした。けれど、無残にも、其の思いは砕かれた。
男が血を流したのと同じ様に、女も血を流した。




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