帰国


自分の靴音だけが響いて居た。目的の場所に向かうに連れ、自分とは違う靴音が混ざるのが判った。革靴の音は、他にも聞こえる。其れも、とても急いで居る様な、そう走って居る。
背を向けて居る此の廊下の先は、元帥の部屋しかない。佐官達だろうと、帽子を深く被った。
視線が合わぬ様、俯き、端に寄る。上の人間が通るのに堂々と真ん中を歩いて居たら、無駄な時間を浪費する。
近付く足音。
俯いて居た自分が悪いのか、前を見て居なかった其方が悪いのか、兎に角ぶつかった。
相手が持って居たであろう書類が床に散乱し、自分の帽子も落ちた。
「申し訳有りません。前を見ず走って居たもので。」
聞こえる声は若く、佐官達で無い事を知る。男であるのは確かだ。ぶつかった時も身長が高く感ぜられ、そうして出た声も低い。
「此方こそ避けず。申し訳無い。」
散乱した書類を広い、拾い集める相手の腕は白く、此の軍の人間では無い。ならば海軍かと顔を上げたが、其の白い腕は軍服では無く、白衣に依る物だった。
医者。
医者が木島に、一体何用か。
呆け、集める医者を見て居た。視線に気付いたのか、顔を上げ、そっと微笑む。其れに自分は、何処か懐かしさを覚えた。
集める手を止め、首を傾げ、出た言葉に、驚いた。
「龍太郎、さん…?」
確信を持てない声色だが、何故此の男は自分の名前を知っているのだろうか。仮に知って居たとしても、本郷、又は中尉と云う。決して下の名前では呼ばない。
「そうですが、貴方は…」
男は瞬きを繰り返し、笑った。妻にとても似ている其の笑顔。
「俺です、時一。」
時一、其の名前を聞き、自分は絶句した。
彼が独逸に発って五年。今時期に大戦が始まろうとして居た。此の五年、長くもあり、短くもあった。自分は変わって居ないが、十五歳であった時一は、今や二十歳。成長し、見違う程良い男に育っている。其れに。
五年前見た時は、左半分が包帯で覆われて居た。然し、今の此の顔に其れは無く、左右顔が現れて居る。初めて会った時は十三歳程で、以降全く成長を見られなかった。
なのに今居る時一は、本当に、云われなければ判らない程成長して居た。
背は高く為り、女みたく高かった声も低い。
「そうか、時一君か。」
再会の喜びも込め、手を握った。
「はい。御無沙汰して居ります。此処で会えるなんて。明日、姉上の所に行こうと思って居たんですよ。」
其の声は昔と変わらず、愛らしい。
「御変わりは無いですか?」
「嗚呼、変わり等あるものか。時一君の方こそ、立派に成長して。いや、判らなかった。」
声に紛れ聞こえる足音。そう云えば、聞こえた足音は一つだけでは無かった。漸く追い付いたのか、止まる。
「嗚呼、もう堪忍して…。うちの年を考えて頂戴…」
部屋迄長い長いと文句忘れず息切らし、呼吸を整える。此の男も又、白衣を着て居る。
「年?煙草の吸い過ぎだろう、宗一は。」
「いんや、絶対年。医者が煙草で呼吸が荒いとか、洒落に為らんへんわ。」
やっと呼吸を整え終わったのか、男は顔を上げる。疲れ切った其の顔。
「…宗一、さん?」
疲れた其の顔は、唯出さえ老けて居る顔を、一層老けさせた。此れが本当に同い年なのだろうかと不安に為る。実は自分だけが若いと思って居るだけで、実際周りが見たら彼と変わりないのでは無いか。一見すると時一と変わりない木島の姿を連日見て居る為、自分もそうだと思って居た。
「え…?嗚呼、何方さん?」
呼吸は正常だが、本当にきついのか、聞いて居る此方迄疲れる声を出す。
「おや。息切れの次は痴呆か。可哀相な宗一。」
「ちゃう。ほんに判らへんのよ。」
「俺でも判ったのに。」
拾い集めた書類を確認し乍ら、毒吐く。独逸に行って、見た目は大層整った様だが、性格は良い具合に歪んだ様御見受けする。
「本郷です。」
云って宗一は理解したらしい。
「嗚呼、龍太郎か。見た目えろぉ変わてるやないの。気付く訳無いわ、無い。」
「俺は一目で判ったよ。こんな良い男、他には居ない。」
「顔が良ければ誰でも宜しいんか、時一。」
無言で見る二人。独逸に行っている間、色々あった様だ。深くは聞かないが。聞いて呉れと頼まれても嫌だが。
変わった、と云われたが、貴方も変わった、とは云えない。此の顔は、軽く四十を過ぎて居る。幾ら何でも老け過ぎだろう。其れに、髪も長い。
親友も渡英して帰って来たが、老ける所か寧ろ若く為って帰って来た。彼に問題があるのだろうと、一人納得した。
「其れより、何故此処に?」
医者の二人が、此処に、然も木島に用がある。再会を目的としたら、此処では無く家に行く。
「元帥に御話が。」
其れは判って居る。其の内容を知りたいのだが、他言を許されて居ないのだろう。
宗一は察したのか、身内贔屓、と云う。
「大戦が始まるやろう?せやから此処に来た。」
「軍医として、帰国して参りました。」
まさか、と思った。
昔の木島からは考えられない意見だったが、こうして今や修羅と為った木島には、身内も何も無いのだろう。腕の良い軍医引き連れ、大戦に向かうのだ。
「そうか、軍医か。」
「はい。」
修羅の考え等、誰に判ろうか。




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