帰国


一体何から守ると云うのか、無意味に頑丈に作られたドアーに顔が歪む。爆撃や砲弾が来る訳でもあるまいに、其のドアーは重く、厚い。扉を挟んだ向こうの世界は、音が無い。聞こえない程、厚いのだ。
宗一は静かに叩き、応答を待つ。聞こえるか如何かも疑わしい。
「はい。」
如何やら此方からの音は聞こえる様で、宗一は云う。
「菅原宗一、菅原時一、元帥の命を受け、只今帰国致しました。」
扉が開かれ、飛び込んだ和臣の姿に、息を飲む。
五年前より一層細く為った身体。目の鋭さは強く為り、木島宗一郎を彷彿とさせた。
「御苦労。」
其の声に、二人は声を無くした。全く似て居る。今は亡き、鬼と謳われた木島宗一郎の、其れなのだ。
「独逸からの長旅、疲れただろう。まあ、座れ。」
煙草を消し、机の前に設置されたソファーを指す。机の後ろには、国旗を肩に纏った在の剥製の狼が、目を光らせ鎮座して居た。
ソファーに座り、微笑む男。男か如何か疑わしいが、軍服を着て居るので、矢張り男なのだろう。
「大変な名誉、痛み入ります。元帥。」
宗一は頭を下げ、着席した。然し時一は立った侭、宗一の後ろに居た。
「彼は、御座りに為らないのですか?」
白い軍服を着た男は時一を見、笑う。
「助手に過ぎぬ者が、同等に腰を落とす等、許されません。」
和臣の顔が動く。
「大層教育がゆき届いていらっしゃる。」
「恐れ入ります。加納元帥。」
「おや、ワタクシの事を御存じで。」
笑う馨に、宗一も笑った。
「加納元帥を知らぬ者等、よもや居りません。」
「おやまあ、独逸に迄情報は行って居るのですか。恐ろしいですねぇ、全く全く。」
云って和臣を睨んだ。元帥に着任し数年しか経って居ないのに、情報が漏れて居るのか。其れ程陸軍の情報網は緩い物なのかと。
「いいえ、帰国する際に。御安心を。」
時一の柔らかい声。
「安堵致しました。野蛮なだけで無く、頭の方も…失礼。」
薄く微笑み、カップに口付ける。其の姿さえ美しく、時一は見惚れた。じとりと合う視線に、馨は目を伏せた。眼鏡越しに見える奇麗な扇を作る長い睫毛。其れに触りたい衝動に駆られる。
「何か。」
何時迄も絡み付く時一の視線に馨は嫌そうな目を向け、息を吐いた。
「いいえ、御無礼を。」
「そんなに、ワタクシの顔が、御好きですか?」
見下した笑み。此の奇麗な顔が歪んだら、面白いだろうなと、時一は思った。
「腕の中で、じっくりと拝見させて頂きたいものです。」
時一の言葉に鳥肌が全身を覆い、カップをソーサーに叩き付けた。其の顔は恐怖で歪み、手は震えて居た。
「わ、ワタクシに…、ワタクシに其の様な趣味は…御座居ません…」
「無くても良いですよ。ベッドに寝そべっていて下されば。嗚呼、目隠しして差し上げましょうか?」
「けっ…、結構っ、其方の趣味も無いっ」
引き攣り笑う馨に、時一は満面の笑みを向けた。
「木島さん…」
震える声に、笑いが出る。
「何だ。海軍軍医長として、正式に引き取るか?」
青褪めた顔を振る馨。
「か、彼は…、海軍には要りません…。折角なのですが…」
「折角海から来たのにな。無駄な時間だった様だな。」
にやにやと笑う和臣。
「…一寸用を思い出しましたので、…失礼…っ」
横に置いた帽子も忘れ、慌てて腰を上げた馨は逃げ帰った。
「おい、帽子忘れてるぞ。捨てるぞ、良いな?」
廊下を覗いたが、其の姿はもう無かった。余程怯えて居たのだろう、柊の如く、早い。
扉を閉め、和臣は高らかと笑った。してやったり。其の高貴な尊顔が歪んだ様、笑わず如何する。
「見たか在の顔っ、傑作だっ」
何とも情けなや、海軍元帥。泣く子も黙る所か、自分が泣いて居る。船の上で身を震わせて居れば良い。
「情けない顔やったわぁ…」
奇麗な顔と認識しただけ、歪んだ様は異様であった。
「子犬みたいだった。」
「わは、わはは、最高だ。ざまあ身晒せ、白女狐がっ」
「元帥、遣りましたね。」
「大佐、万歳だっ」
事前に、一人気に食わない彫刻品みたいな男が居る、此奴を一泡吹かせて遣って呉れ、そう時一に頼んで居た。こうも簡単に行くとは、此れから其の形でからかって行くか。
馨の怯え様に満足した和臣は息を吐いた。そうして、宗一の顔を見た。
「…御帰り。」
会いたいと、ずっと願った姿。夢でさえ会えなかった。
羽を持って生まれて来たら良かったのにとも思った。
笑う和臣に宗一も笑い、腰を上げた。昔の様に、頭をくしゃりと撫で、額をくっ付けた。
「良え子にしてた?修羅様。」
「嗚呼。御前が望んだ修羅の道だ。如何だ?御気に召して頂けたか?」
今にも泣き出しそうな顔。其れを消す様に、宗一は頭をぐしゃぐしゃにした。
「申し分無い。喜んで、戦場に向かう。」
修羅道に落ちた鬼畜―――。
全ては、宗一が、自分の元に帰って来る為。昔木島宗一郎が、一人の女の為に、国を手に入れたのと同じ様に。
「御帰り…、兄さん。」
「只今。」
強く抱き締め、誓う。此の命、喜んで帝國軍に、差し出そう。和臣の為なら、厭わない、と。




*prev|2/2|next#
T-ss