遠征


数週間が過ぎた。時恵の家には、琥珀と雪子、そして其の子供達が居る。男達は眠りに就く時、決まって愛しい女の顔を浮かべた。決して安らかに寝れる訳では無い。何時来るか知らぬ音に、神経を張り、眠る。寝覚めても、寝た気のしない現実。
目の前で、人が死んでゆく。其の地獄絵図。何度其の光景を思い出し、男達は跳ね起きた事か。此れが、修羅の道。
息を潜め眠る部下を眺め乍ら、本郷、井上、木島、加納は深く息を吐いた。陸で、海で、修羅が笑う。
其の修羅は、如何やら今日は、敵国に微笑み掛けた様だった。
明るさと同時の爆撃音。其れに佐官達は飛び起きた。
「元帥っ」
何時の間にか屋根が吹き飛び、星空が視界に入る。
「御怪我は…」
云って、大佐の言葉は消えた。どくどくと、身体が熱い。全身の血液が、沸騰して居た。
「軍医を、早く軍医をっ」
喚く声が、微かに遠い。自分は如何為ったのだろうと、両腕を見た。然し、両腕を上げた筈なのに、左手しか見えないのは何故か。暗い中で視線を動かし、妙に身体が温かいのに気付いた。
「元帥っ」
砲撃で吹き飛ばされた壁は肩を直撃し、痛みも無い間に和臣の右腕は吹き飛ばされた。探そうにも此の暗さ、もう無いかも知れない。一気に明かりが点き、視界を塞ぐ。慣れた頃目を開けると、前方に自分の腕であったであろう肉の塊が無残に落ちて居た。砂に塗れ、不思議な気分であった。
「若しかして、在れ、俺の腕か…?」
指の示す方に大佐は向き、俯かれた為其れである事を確認した。
「悪いな。約束は、守れそうに無い…」
霞む視界で、和臣は笑った。片腕でも、撫でる事は出来るだろうが、抱き締める事が出来無い。
―――御免な。約束したのにな。
むっくりと、起き上がった。父に撫でられた気がした。そんな筈無いと思うが、此の感覚、優しく笑う父の顔、声。呼ばれた気がした。瞬間、空襲警報が鳴り響いた。
「母上…っ」
そうか此れだったのかと、雪子の身体を揺すり、警報に泣き出した弟達を抱えた。其処にある物を手当たり次第に掴み、廊下を走った。
「早く、早く入ってっ」
避難場所に子供達から先に押し遣り、近付く重たい音、振動は足に迄伝わり、時恵は空を見上げた。
「亜米利加…」
上空を掠めた攻撃機。其の黒さと速さに、力が抜けた。
――桁が違う…
こんな国相手に勝つ筈が無いと、二機三機と続けて飛んで来る攻撃機を見た。
「時恵さんっ」
見せ付けられた敵国の戦闘力に放心する時恵の腕を引き、女三人で重たい扉を閉めた。
「オゥケィ、レイディス。宴を始め様か。」
そう云って居るかの様に、攻撃は始まった。
撃ち込まれる弾、揺るぐ地面。寸前の処で扉は閉まり、生きた心地がしなかった。次此の扉を開けた時、世界は如何為って居るのか、想像もしたくない。がたがたと震える琥珀は、必死に十字を切り、母国語を話して居た。
「父上、父上…」
恐怖と戦い乍ら、弟を抱き締めた。額を伝う汗を嗤う様に音は聞こえる。
「一寸待って…」
蝋燭を点けた時恵は辺りを見渡し、悪寒が走った。
「白蓮は、何処…?」
確かに横に居た、けれど入ったのは見て居ない。
「白蓮…?」
狭い部屋を探しても居ない。在の中に置き去りにしたのでは無いか、そう考え付いた瞬間、攻撃も止んで居ないと云うのに時恵は扉に手を掛けた。
「白蓮っ、白蓮…っ」
「時恵、駄目っ」
「離して、嫌、離して頂戴…っ」
錯乱し、扉を開け様とする時恵を雪子と琥珀、息子で掴んだ。和臣が守って欲しいと云ったもの、雪子や弟達だけでは無い、“此れ”を一番に守らなければいけないのでは無いかと、息子は扉側に立ち、押し込める様に止めた。
「叔母上、叔母上…っ」
「退いて、御願い、白蓮っ」
時恵の喚き声は攻撃音より激しく、暫くすると警報が再度響いた。
「行った…?」
琥珀の言葉に腕を、息子を振り払い、女三人で漸く閉まった扉を時恵は開けた。
さっき迄伸びていた廊下は半分消え、敵国の威力に琥珀は力抜けた。
「白蓮っ白蓮っ」
声帯が潰れる程叫び、呼ぶ。呼べば必ず姿を見せる白蓮だが、今の時恵の声には姿を現さなかった。
「娘は…娘は何処…」
半狂乱に為り、雪子にしがみ付いた。其の顔に、修羅を見た。
大事な娘が、居ない。呼べば必ず現れるのに―――笑いが、止まらなかった。
ぞくりと、何かが背中に走った。虫か何かかと後ろに視線を遣った。
「如何した…」
拓也の声に、龍太郎は首を傾げた。
「背中に、何か居ないか?」
「あ?背中?」
暗い中確認したが、そんな物は居なかった。
「居ねぇよ。」
「おかしいな…今確かに…」
云って、寒気が走った。柔らかい、獣の感触。最初は拓也の髪と思ったが、そんな遊びをして居る場合では無い。其れに此れは如何考えても。
「白蓮…」
青褪め、手が震えた。
「おい、龍太…。おいっ」
「白蓮…」
間違える筈が無い。此れは虫の知らせか、ふっと力が抜け、拓也の腕に落ちた。
微かに動く瓦礫の山。雪子は目を凝らし、其れが風なのか、そうで無いのかを確認した。落ちて居る木の破片で其れを突付き、見えた毛並み。
「白蓮ちゃんっ」
煙の上がる瓦礫を取り払い、蹲る白蓮を見付けた。
「時恵さんっ」
叫び、居た事を知らせたが目を瞑り動かない為、生きている可能性が低い。こんな荒れた中でも、白蓮の白さは残って居た。
「白蓮…」
小さな時恵の声に白蓮は目を開けた。
「嗚呼、白蓮…良かったわ…」
――置いて行く何て、酷い方…。死ぬ程怖かったんですのよ…。弾が雨みたくてね。
手を伸ばし、ゆっくりと近付く時恵にくすんと鼻を鳴らし、鼻を向けた。
「もう、心配したのよ…」
――母上も、大事にね。
身体を塞ぐ板を取り、砂を落とした。ゆっくりと立ち上がった白蓮に、琥珀は悲鳴を漏らした。
「白蓮っ、嫌だ、嘘だっ」
其れに時恵は、放心した。ぱくりと切れた腹から、臓器や血液が流れ落ちた。
――内臓、落ちたかすら…?
「白蓮…?」
――最後に、迎えたかったなぁ…、父上…
目にうっすらと涙を溜め、笑う白蓮。
――母上、愛してるわ。
「びゃ……………」
ふっと閉じた目から涙が流れ、支え様と伸ばした手に白蓮の物だった物がぐちゃりと触れ、赤く染まった両手を見た。
「あ…嗚呼…?」
離した拍子にだらりと舌を垂らした姿で地面に落ち、息絶えた事を知った。
「ああああああ…っ。白蓮っ白蓮っ」
身体を揺するが全く応えては呉れず、目から大量に流れた涙は白蓮の毛を濡らして行った。人間に此処迄涙がある等、時恵は知らなかった。頭はがんがんと、在の警報音みたく鳴って居た。
「嘘よ、白蓮っ。駄目よ、目を開けて頂戴っ」
「時恵っ」
発狂する時恵の身体を剥がそうと琥珀は必死に為るが力が強い。白蓮の姿を見れず、逸らす様に時恵にしがみ付いた。
「時恵…時恵…。駄目だよ…。そんなに揺すったら、白蓮、痛がるよ…」
「あは…あはは…」
―――悪夢だわ…。
其れだけ一言、時恵は笑った。ぴったりと涙は止まり、前を見た侭にやにやと笑って居た。
受け入れれない自分が居る。周りは、たかが狼と云うが、子供の出来ない二人にとっては大事な娘だった。
其の娘が、死んだ。
「あは、あははははははっ」
見開いた侭けたましく笑う時恵の其の姿に、琥珀は震え出し身体を離した。
「死んだっ、ははっ。白蓮がっ死んでよっ。ワタクシの、娘がっ。あはっあはははははっ」
瞬きをせず笑う時恵に、雪子は視線を逸らし、吐き気さえ覚えた。ふっと笑うのを止め、白蓮を見ると音無く気絶した。
雪子から届いた電報に、龍太郎は震えた。
――ゴレイジョウ シキョ。
全く感情を見せない電報を握り潰した。一寸の狂いも無い文字は狂気に満ち溢れ、紙から文字は浮き上がり、辺りに浮いた。
「白蓮…」
寿命で在ればどれ程良いか、敵軍の本土攻撃は伝達で聞いた。全く同じ時に、死んだ。
「痛かったろ…白蓮…」
在の小さな身体では、嘸痛かったであろう、握り潰した電報を額に付けた。
「龍太…」
「拓也…如何したら良い…。娘が居なく為っただけなら未だしも…」
時恵は、想像もしたく無い。自分より溺愛して居た。
目の前で見た娘の最後、其れに狂った妻。思い出す、拓也が狂った在の時を。
「畜生…、畜生…………っ」
電報を叩き捨て、吠えた。軍刀を振り回し、泣き叫んだ。
「だから嫌だと云ったんだ、此れが望みか、木島。此れが、御前が望んだ世界か…っ」
嫌味たらしく揺れる国旗を引き裂いた。其の避ける音に、拓也は唇を噛み締めた。
「御前の私欲の為に、俺は、俺達は死ぬんじゃないっ」
此れが戦争。
国を潰すんじゃない、心を潰すのが、戦争だ。




*prev|5/5|next#
T-ss