大和撫子


雪子は鼻で笑った。夫であり、陸軍元帥であり、子供達の父親であった和臣は、軽い灰となり帰って来た。とてもで無いが、肉体の侭返せなかった。右腕は無く、自ら作った傷はL字型に歪み、白蓮がそう為った様に中の物全て出していた。冷たい、とても冷たい其の身体を、熱い炎の中に沈めた。
在の時渡した軍服は、敵軍に渡る事無く、又主の身体を包んだ。
遺骨と共に帰って来た軍服を、雪子は抱き締め、嗚咽を漏らした。微かに感じる、和臣の匂い。本当に微かで、雪子以外には判別出来無い程。抱き締め、無くなる迄肺に染み込ませた。
「何時も、私が抱き締めるのね…」
初めて会った時も今も、和臣から抱かれた事はあっただろうか。考え、無い事に気付いたが、悲しくは無かった。
心残りは一つ。望んでいた娘を抱かせてやる事が出来なかった事。双子の何方かが女であれば良かったのだが作ろうにも、二度と叶わぬ夢だと知る。
何故、何故彼が―――。
毎日毎日同じ事しか頭に無く、其れは息子も同じだった。
「必ずと、父上…」
遺影に呟く。欲しいのは、正しい答えでも、慰めの言葉でも、何でも無い。在の時交わした約束が欲しかった。
「何故…何故です父上っ。必ず帰って来ると約束して下さったではありませんかっ」
喚いた処で果たされる訳では無いのに、云って仕舞わなければ頭がおかしく為りそうだった。喚く事で、頭に残る和臣の声を消した。
自分は果たした。なのに、なのに何故。
「父上…」
仏壇の横に掛けられた軍服が、嗤う。息子は其れに吸い寄せられる様に取り、着た。大きくて、ぶかぶかで、和臣の大きさを知った。
――カズユキ。
思い出す顔は、笑って居た。笑い、頭を撫でて呉れた。
「父上…もう一度…」
崩れ落ち、強く軍服を掴んだ。
頭に触る温もり。思いが通じたのか、将又幻覚を知る程おかしく為って仕舞ったのか、怯えた目を一幸は開いた。
「此れで、良い?」
微笑む顔。髪は光に透け、後光に見えた。
「宗一…さん…」
其の名を呼ぶと、涙は止まった。
「大丈夫、大丈夫。な?」
頭を撫でられる度、優しく微笑んで呉れる度、安心した。和臣が宗一に安堵感を覚える様に一幸も同じで、和臣が宗一に執着を見せて居た理由が判った。
「あったかい…」
そう目を瞑る一幸は和臣と同じ顔で、昔の面影を重ねた。兄弟として共に過ごした、幼い頃の和臣と良く似る一幸。幼い和臣が自分に会いに来たのでは無いかと思う程、似て居た。双子よりも一幸を猫可愛がりする夫人、溺愛して居た息子を孫に見て居たと知る。
「ほんま、よぅ似てるわ。」
そうして遺影を見たが、其れには全く似て居なかった。冷たい目をした修羅が、其処には居た。
違う。こんなの、和臣ちゃう…。
遺影を手にし、何処かに和臣がある筈だと探した。けれどどんなに見ても探しても、硝子の向こうから自分を見る修羅の目には見付け出せなかった。
此れは、弟の、夫の、父の木島和臣では無い。此れは、陸軍元帥の木島。修羅に成り下がった、哀れな畜生。
「和臣返せやっ」
此れが皆が認識する和臣かと思うと吐き気しかせず、遺影を床に叩き付けた。皹割れた硝子は砕け、破片を落とした。一幸は慌てて其れを拾い上げたが、新しく置かれた写真に、又床に捨てた。何時のかは判らないが、随分昔なのは判る。一幸の知らない軍服を着た和臣が、誰かが横に居るのだろう、寄り添う様に身体を屈し、愛らしく微笑み乍ら敬礼をして居た。物音に気付き来た雪子は、其の少年とも青年とも付かない笑顔を見せる和臣を呆然と見た。
「あら、和臣さん。御帰り為さい。」
新しく置かれた写真に近付き、一度触れると其の侭床に指を付け頭を下げた。
「御疲れ様に、御座居ました。」
妻でも無く母でも無い、女の顔をした雪子を一幸は見詰めた。
「宗一さん…」
有難うと云う雪子に、自然と涙が流れた。肉体は確かに帰って来なかったが、雪子には充分だった。
「此れが…うち等の愛した和臣や…。違う…?」
「…ええ…そう…、此の顔…」
随分と、こんな穏やかな顔は見て居なかった。修羅と化し、見れなかった。又一度有難うと云った雪子に、宗一は床に額を付けた。
「御免。」
何故謝罪されるのか、何故自分に頭を下げるのか、和臣が死んだのは宗一の所為では無いのに、額一杯に床を付ける宗一の姿に雪子は困惑した。止めてと手を出したが、一度振り払われた事があり、伸ばした手を胸の前で固めた。
「詫びたかったんや、ずっと。」
本来ならば在の時、素直に二人の結婚を祝って居ればこんな末路には為らなかったと宗一は云う。
「うちが和臣をこないにしたんや。全部うちが悪い。家族を目茶苦茶にしたんも全部うちや。」
傷付けた侭離れた、其れが一層、和臣の傷を抉り、不安定にさせた。
「全部…うちの所為や…。和臣が死んだんは、うちの所為や。」
床に伸びる亜麻色の髪、雪子は首を振った。
「そんな…止めて下さい、宗一さんは悪くありません。私が、私が和臣さんを愛したからっ」
「ちゃう、和臣には雪子はんが必要遣った。其れと同しに、うちの事も必要としてた、せやけど、せやけど…」
祝福して遣らない気持も無かった、けれど在の時は、父親である木島の態度に憤怒した。結局は和臣、和臣が居れば木島は満足で良いのだと、宗一だけでは無く時恵達も感じた。八つ当たりに近い形で三人の怒りが和臣に向いただけ、其の和臣本人は何食わぬ顔で居た。
兄と弟の、強烈な違いを宗一は知った。
今迄隠して居た嫉妬が、爆発した。自分が欲しい木島からの信頼を、和臣は何時も手にする。例え其れが木島を怒らす形だろうと、結局は許された。其れは何故か、宗一と和臣の結果的な違い、子孫を残せるか否かの問題だった。
見せ付けられた結果的な違い、自尊心が崩れ落ちた。
父親である木島を、只管憎み続けた。そんな木島から信頼される和臣も、裏を返せば単なる憎しみ以外の感情は無かった。時恵や時一に一切の憎しみが無いのは、木島の愛玩用と理解して居たからに過ぎない。
二人は時恵達の様に、木島から愛は受けて居ない。宗一と和臣、信頼があるか無いかの違いは大きかった。和臣は和臣で、時一を憎んで居た。自分同様に好き勝手して居る癖に木島からの避難は無く、又愛も受けて居た。和臣が時一に余り関心を持たないのは此れであり、そんな宗一と和臣、木島の持って行き様の無い感情は全て時恵に向いた。時一も母親が居ない寂しさを時恵で埋めた。
時恵が、在の家では全てだった。そんな時恵に木島が反発を見せた、此れが時一を憤慨させた。
時恵から雪子に木島の気持が動く、そんな事はあっては為らない。
ならば逸そ、壊して仕舞おう。
宗一は和臣から離れ、和臣はそんな自分を恨んだ。自分を責め続けた。
「御免な、和臣。一言、雪子はん大事にしたらなあかんでて、云えば良かったんやな。」
自分の知らない過去に遡り話す二人、忘れて居た一幸の気配を知った二人は息を飲んだ。
「御免な、一幸。おとん殺したんは、うちや。」
宗一は立ち上がり、写真に唇を落とすと、笑い、背中を見せた。
「雪子はん…あん時、あないな事ゆうて…なんぞ、ゆうて、悪かったわ。立派な元帥夫人やったわ。」
其の過去系。雪子は唇を噛んだ。宗一の姿が見えなくなり、飛んだ硝子片を一つづつ、丁寧に拾った。其の虚ろな目に、一幸は何も云えず、手伝った。過去を詮索する積もりは無いが、羽織った軍服の袖が揺れる度、衝動に駆られる。
「あの…母上…」
瞬間、何かが弾け飛んだ様に雪子は、自分を睨む修羅を庭に投げ捨てた。折角拾い集めた硝子片が又散り、庭にある石に激突した。
「何が…」
余りの強さに、噛んだ下唇から血が滲んだ。
「何が本郷元帥だ、元帥に相応しいのは彼、龍太郎さんでは無いわっ」
狂った様に硝子窓を叩き、割れて仕舞うのでは無いかと思う程に大きな音を響かせた。誰かが憎い訳でも、過去が憎い訳でも無い。唯、無性に腹立たしいだけ。
「和臣さん以外は…嫌…」
和臣が何食わぬ顔で木島の信頼を受けた様に、今の龍太郎の存在は雪子を苛立たせるだけでしか無かった。
在の轟きを浴びるのは、和臣。其れ以外、許せなかった。




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