大和撫子


前の様にとは行かないが、時恵の調子は戻り始めた。琥珀が最初、時恵と出会った時の様に毎日様子を見に来た。夫である馨の母親からは「嫁の癖に毎日出歩いて」と良い顔され無いが相手が相手な為、馨は何も云わない。自分よりも琥珀を必要として居るのは時恵だと、笑顔で其れを見送った。もう一人、時一が時間を作っては会いに来た。来ては琥珀と喧嘩し合い、或いは時恵の着せ替え人形に自ら進んで為り、少しでも、白蓮が居なかった頃の生活に戻そうとして居た。
連日、二人の馬鹿騒ぎを目の当たりにする時恵は少しづつだが戻れて居た。
今日もそんな状況で、時恵の服を着合って居た二人は喧嘩に発展した。
「馬鹿女には、似合わないんじゃ無いのか?」
鼻で笑い、日本人形の様な時一は鏡に向かう。一方琥珀は、成長した為か顔は派手さを増し、無理矢理着物を着せた様な不格好と云うかちんちくりんと云うか、バランスの取れない姿であった。
「おかしいなあ…」
胸が極端に大きいからだろうかと思うが、時恵も大きい。然し琥珀は、胸を潰すと云う一番大事な事を忘れて居た。時恵は潰して居る為、バランスが取れて居る。
「素直に馬鹿面に似合う服でも着とけよ。」
散々虚仮にされ、膨れた琥珀は何を思ったか時一の軍服を着た。勝手に着るなと当然云われ、長い髪を帽子に収めた姿を見た時、琥珀は思った。
「加納さんみたい。」
呟いた琥珀に、御前も加納さんだろうと時一に云われ、尤もな言葉に時恵は笑った。
琥珀が誰を指して居るかは判る。海軍軍師であり、馨の妹、異名を男装の麗人、加納雅である。
「御前、鏡見て物云えば?」
在の麗人みたいとは、馬鹿馬鹿しい。ちんどん屋の間違いでは無いか。
「見てるよっ、見て云ったんだよっ」
「じゃあ、視力が悪いか頭が悪いか、或いは、相当心が病んでるかだな。」
「何でよっ」
「加納雅を見て云ってるのか?って事。」
「見てるよっ、其れこそ毎日見てるよっ」
「加納、雅…?」
二人の言い合いを聞いて居た時恵は、ふっと口を挟み、首を傾げた侭執拗に瞬きを繰り返す目で天井を見て居た。
琥珀の式に出て居た為母親は判る、けれど其処に雅は居なかった。てっきり馨は一人息子の、和臣とは違う甘やかしを受けた息子だと思って居た。そうか妹が居たのか、其れにしては姿を見ないと、天井を見続けた。
「男装の、麗人ねぇ。」
果たして其れで、男と同等で居られるのか、時恵には謎だった。所詮は女では無いのか、そう思う。
「でもね加納さんって、後ろから見たら、本当に馨さんと変わらないんだよ。」
「背が高いんですよ。」
「そうなの。」
「馨さんとじゃ無くて、加納さんと結婚したかったかも。」
同じ加納ならね、と冗談で琥珀は云うが相手が相手、時一は笑えずに居た。
「破滅するぞ、馬鹿女…」
「本望だね、ふへ。」
厭らしく笑う其の顔は、拓也に似て居た。同じと云っても過言ではない。雅の事を詳しく知らない時恵は、「そうよ、報われない恋は御止め為さい」と冗談半分諭したが、時一は額に手を当てた。
此れが冗談では済まない相手なのだ。
「加納さん、何時も女の子が傍に居るよ。」
加納雅は同性愛者、琥珀が少し誘えば雅は容易くベッドに誘う。男が好きな女であろうが、人の妻であろうが、娼婦であろうが女であれば見境無い、其れが加納雅である。軍内部からは、爆弾とも云われる。行動もだが、此の行動により、馨を憤慨させる為。
雅の悪行は此れだけには止まらない。最悪な事に馨と雅は顔が似て居る。憧れの海軍大将様に思い寄せるうら若き娘迄も、同じ顔で愛を囁き、自分の物にして仕舞う。馨の髪形を模造した鬘を被り、眼鏡を掛け、其れで女を弄ぶ。結果女の馨に対する信頼を無くす、落ちた信用に、「元帥はモテませんね、私はモテるのに」と一人笑うのである。
たった一人で膨大な組織、ハーレムを作り上げて居た。其の中に何とか入れないだろうかと、女達は思って居た。
「其れにあたしも入れて貰えないかなぁ…」
琥珀も思って居た。
雅が如何為る存在か聞いた時恵は、琥珀を哀れんだ。そして少しばかり馨も哀れんだ。道理で今迄結婚して居なかった訳だと。和臣同様拍子揃うのに何故だ、和臣は性癖と云う分厚い壁があったが馨は無いだろう、なのに何故。時恵は疑問抱いて居たが成程、全て雅の策略。流石は軍師、頭は切れる。
加納兄弟の仲が悪いのは、此れで良く判った。式にも呼ばれない筈である。結婚する前に琥珀と雅を会わせなかった馨も、矢張り頭の切れる男である。気付いて居るのなら、止めれば良いのに、とも思うが。
「いや、無理だろう。」
雅が琥珀を相手にする事は絶対に無い、精々妄想の中で涎を垂らして於けと、冷たく発した。
「何故かすら。」
其処迄の女好き、然も人の妻でも関係無いとでは云うか、其れに琥珀は可愛い。馨が惚れた位なのだから、雅を落とす位簡単に見える。
「仲がねぇ、悪いんですよ、在の兄弟。海軍所か陸軍内でも有名ですよ。」
詰まりはこうだ。
馨の手垢の付いた女に何か、触らない。汚物にしか見えない。相手にする価値も無い。道端に落ちる犬の排泄物の方が未だ価値がある。
酷い様だが、そうなのだ。
「大変ねえ。」
「人の家の事なんで、興味無いですが。」
「結婚する前に会いたかった…」
「はいはい。会ったとしても、相手して貰えないよ。」
「時恵もね、加納さんに会えば、絶対落ちちゃうよ。だから会わないでね。」
「まさか。」
「姉上が御前みたく尻軽な訳無いだろう、馬鹿女。」
「其れがねぇ、違うんだよねぇ。」
龍太郎一筋の時恵でも、在の雅を見れば変わる。寝ろとは云って居ない、龍太郎を捨てろとも云って居ない、他に惚れた人間が出来る感覚を知ると琥珀は云う。思考の全割を占める相手、琥珀であれば馨、が、雅を一目見ると八割程度に為る。夕食を作って居る時も「馨さん、此れ好きかな?」と思って居た筈が「加納さんに持って行こうかな」と変わる。
何かそんな人物が居たな、と時恵は思った。主人より違う人物を常に考え、行動して居た人物。身近に居る、誰だろう。
考えて居た其の時、ベルが鳴った。
「誰かすら。」
ああい、と云う節子特有の声を聞いたので、何れ来る。其の前に二人の格好を元に戻さなければ為らない。軍服を剥ぎ取られ悲鳴を上げる琥珀、時一は着替えたが、服が見当たらない琥珀は狼狽した。誰が来るかは知らないが、時恵の知り合いにスリップ姿を見せるとは、然も白昼に、頭のおかしな女としか思えない。悪い事に時一が居る。軍医相手に白昼堂々服を脱ぎ、其れをぽかんと眺める時恵。精神状態を疑われる絵図である。
「あ、そうか、軍医。」
医者が目の前に居る、序でに診て貰って居たと言い訳し様と、服を探し始めた。
服は時一が脱ぎ捨てた長着の下に埋もれて居た。
「ファスナーっ、締めてっ」
「一人で着れないなら着るなよ…」
「早く、焦ってんのっ」
「はいはい…」
ファスナーを上げた時、ドアーが叩かれた。間一髪、時恵は間延びした声を出した。顔を出したのは節子、では無く、第二夫人であった。初めて時一の軍服姿を見た夫人は一言「時間って、早いねぇ」と云った。
「格好良い、格好良い。」
「本当ですか?」
「時子さんに、見せたかったな。」
其処で時恵は、“主人よりも違う人物を思う人物”を思い出した。他為らぬ夫人であり、現に今、云った。木島が見たかっただろうな、とでは無く、時子さんに見せたかった。
一寸違うかも知れないが、雅とはこんな風に人の心に入り込むのだろうと、危険を匂わせた。
「母上は、見たら、何と仰ったでしょう。」
「ほらね、云った通り。和臣ちゃんより素敵でしょ、時一は。」
「はあ、そう来ますか。」
「そしてあたしは勿論、当たり前、だって時子さんの息子だもん、和臣は指咥えて悶絶してるって返す。まあ実際、悔しがってるだろうよ、在の世で。」
そう夫人は云うと、窓の外に視線を向けた。時恵の心中に暖かい物が宿り、時一は其の情景を思い浮かべ、琥珀は何時迄経っても来ない節子を考え、暫くの無言が続いた。
「和臣のね。」
用件を云おうと口を開いた時、節子、では又無く、見た事の無い人物が開いた侭のドアーから顔を出した。
白い軍服、涼しい目元、彫刻の様な顔に、時恵は息を飲んだ。
「行き成りの訪問、御許しを。加納と申します。」
ゆったりとした物言い、上品に笑う姿、此れが在の麗人の名を欲しいが侭に震わす加納雅かと時恵は知った。此れは成程、馨以上にモテそうである。馨は端麗さよりも冷徹さが勝り、記憶に残り、冷徹さが馨を美しく見せて居ると過言では無い。女からして見れば、馨より雅の方が取っ付き易い。同じ顔なら尚更、雅に流れるであろう。
「加納様…?」
首を傾げ、何用かと聞いた時恵に雅は近付いた。ベッドに腰掛ける時恵に跪き、見上げた。
「御加減、如何ですか、時恵様。」
膝に乗る手を掬い、指先にキスをした。其の行動に時一は雄叫び上げ、夫人は「嗚呼」と云った。夫人の其の声に雅は振り向き、咥え煙草の仁王立ちで自分を見下ろす夫人に驚きを見せた。
「貴女、は…?」
「保護者だよ、時恵ちゃんの。害虫は叩くよ。」
「其れは、困ったな。」
時恵から手を離し、立ち上がった雅は夫人を見た。時恵には判らないが、落としに掛かって居ると琥珀と時一には判った。
じっと見られた夫人は怯む事無く、又逸らしもせず見詰め返した。凛とした夫人の目、雅の眉が上がった。
「強烈。」
「あんたもな。でも諦めな。」
雅を知る夫人は、噂通りに自分を落としに掛かる雅に気付いた。
「何故?」
「あたし、好きな人が居るんだよ。だから駄目。」
「少し、私に向いて呉れない?」
「嫌。あんた知ってる?生きてる人間より、死んだ人間の方が強いんだよ。」
「残念。名前位、聞いて良い?私が思っとく。」
「一海だよ。」
「カズミ…、漢字は?」
「一つの海。好きだろう?海軍さん。」
終始雅から目を逸らさず、覚えてたら夕食の時に用件を云う、と夫人はドアーを締めた。流石は木島の愛人なだけあった女、雅の視線一つでは動じない。息子が死んだ時も動揺無かった。動揺する事はあるのか、時一は考えた。考えた所でそんな勇気持ち合わせては居ないのだが。
帰り支度を終えた琥珀は時恵に向いた。
「加納さん迎えに来たし、帰るね。」
「ええ。」
帽子を被り直した雅は琥珀の持って居た鞄を持ち、首を傾げ別れの挨拶をした。水仙が風に揺れた、そんな感じであった。
「御機嫌よう、時恵様。」
其の声は水滴の様に澄み、時恵の身体に浸透した。琥珀の様に高い訳でも無く、時一の様に低い訳でも無く、馨の声質に似ていた。かと云って馨みたく癪に触る声でも無かった。何とも不思議な声で、時恵は聞き惚れた。
「龍太郎様の御声を聞いて居るみたいですわ。」
誰に似ているかと聞かれれば、龍太郎だった。何と無く云った時恵だが時一は気に食わなく顔を顰め、雅は薄く笑うだけであった。
水仙が揺れ動く様に、雅は静かにドアーを閉めた。
部屋に取り残された海の匂い、嫌いでは無かった。
其処に漸く節子が現れ、「加納様は?」そう云った。
「御帰りに為ってよ。擦れ違わなかった?」
「いえ…」
紅茶を持って来た節子は如何した物かと、紅茶を飲まない二人に対しトレーを如何する事も出来ず居た。
「頑張って煎れたのに…」
加納家は珈琲を口にしないと節子は噂で聞いて居た。茶や珈琲は一式揃って居るので、無い訳では無いが、なんせ来客者は大半が珈琲と云う。紅茶等滅多な事が無いと淹れ無い為、少々手子摺った。自身の苦労が無駄に為ったと知った節子は眼鏡の奥にある鋭い目に涙を浮かべた。
「俺、飲みましょうか?」
悪徳訪問販売者ですら竹箒振り回し撃退する勇ましい節子の、見せたしおらしい姿に時一は胸が痛んだ。
「嬉しいっ」
花が咲いた様に明るく笑い、一口飲んだ時一は「御上手です」と褒めた。節子の目元から涙は消え、又在の鋭い目に戻る。
盆にカップを戻し、じっくり観察した。時一の視線は痴漢を彷彿させ、室内の何処で使うのか、廊下に立て掛けて居た愛刀為らぬ愛箒を掴んだ。
「ほらほら時一、逃げ無ければ。」
節子の殺気に気付いた時はニヤニヤ、止める事無く眺めた。
「俺、変態じゃないですよっ」
「あら、そうなの?」
「兄さんじゃあるまいにっ」
ひゅんひゅんと箒を器用に手首で回し始めた節子は、一寸でも時一が寄ろうものなら振り翳す勢いを見せた。
「井上さんが、云ってたなって。」
眼光鋭い女中は一変、耳を赤く染めると、弱々しい女の顔と為り箒を落とした。
「あら嫌だわ、節子ったら。」
一変した節子に時恵は一層ニヤニヤ笑い、井上様、とからかった。
節子はそう、拓也に惚れて居た。
本人は云わないが、判る。目の動き、指先の緊張、声の調子、背筋の伸び、拓也が来ると全てが女の其れと為って仕舞う。節子をずっと見て居た時恵だから判る事であり、龍太郎は全く気付いて居ない。
「時恵様、あの…」
「久しくいらっしゃってませんものね。井上様…」
気付いた時一は「嗚呼」と、好色の目を向けた。
「好き何ですかあ。」
間近に顔を寄せられても箒を振り回す事もせず、勢い失い、赤く為った顔を見られない様に俯いた。
「時一駄目よ、節子をからかっては。純情なのよ。」
けれど口元の緩みは締まる事無い。
男で居た時一は、こう為ったら女に為る。女同士の秘めたる色恋事に、男の艶は要らないのだ。喉の奥で妖艶に笑うと、女の声を出した。
「井上様ねぇ、んふふ。仰ってたわよぅ?」
「何、と…?」
「すっげぇ美人で、目が離せない。ストイックな女って、そそるよな。」
「まあ、井上様ったら。」
本当にまあねぇ、見境の無い方です事、と時恵は何とも楽しそうに口元隠し笑う。美人と云われたは嬉しいが、ストイック、と云う意味の判らない節子は首を傾げた。
「克己的で、禁欲的。厳格な…」
そう云う女を汚す背徳感。
時一はそう云いたいのだが、詰まりは拓也と正反対な事と云った。
因みに、拓也が“久しく”本郷家を訪れないのは、節子に意地悪で色目使おうとするのを知った龍太郎が出入り禁止にした為である。嫁入り前の娘を預かる身としては、危険を徹底的に排除…と龍太郎は考えて居る。あんな下手物、失礼、色魔を近付けさせる訳にはいかないのだ。
聞いた節子は益々逆上せ、盆と箒を持って部屋から出た。
「可愛いでしょう、節子。」
「はい、とても。姉上が御傍に置く方です。」
少しづつ、時恵は戻り始めて居る。
姑に小言云われ様が無視をする琥珀、雅の視線に全く怯む事無く逆手に取った夫人、父親の制止も聞かず駆け付けた節子、女達の強さを、肌で感じた。




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