酒と女と、男女心


夜中、と云っても男にしてみれば、夜だった。丁度午前零時を過ぎ様とした頃か、力強く外門を叩く者が居た。男は居留守を決め込み、続けて酒を飲んでいたが、帰る気配は無い。叩く音と声が酷くなる。男は、五分位だろうか、聞き、やっと喚きに腰を上げた。相手は判っている。
「近所迷惑。」
がたがたと建て付けの悪い門を揺する相手に、男は欠伸を殺し云う。
「近所何て無いじゃんか。」
確かに周りには、家と云う家は見当たら無いが、そうはっきり云わなくても良い。唯でさえ相手の娘の声は甲高く、響くと云うのに。暗い中でも輝く琥珀色の髪は、月明かりを容易く吸い込み自分の物にする。懐かしい其れに男は昔の様に見惚れ、娘の腕を引き入れた。
「又、逃げ出したのか…え?」
味噌の次は何だと云いたい。まさかこんな時間に、又味噌だとは云わないだろう。云ったら云ったで追い返す迄だ。
今更、もう何度後悔したか。
「やっぱり御前に由緒正しき加納家は無理だったんだよ…」
然し、戻って来いと云う言葉を男は飲み込んだ。男が甘やかし育てた結果、娘はこうなった。自分の不始末を自分で処理するのは簡単だが、結局娘には何にも為らない。今此処で甘やかし、又違う男と結婚しても、同じ事を繰り返さすだけな気がして為らない。娘が云う様に、そんな事を繰り返して居たら、本当に婆さんに為って仕舞う。そしたら御覧、やれ変人だ、やれ意地悪婆さんだのと近所の子供に云われるに違いない。英吉利から態々来たのに、其れでは余りに可哀相だ。此処は娘に、いや男が我慢し、嫁ぎ先から離縁を申し出される迄、続けて貰おう。男が我慢する辺り、結局男は、娘に甘いのだ。
「で、今日は如何した。」
やんわりとした口調で男は云い、薄い着物の上から羽織りを自分の肩に掛けた。幾ら愛娘とは云え、夫以外の肌を見せるものでは無い。愛用の酒器で酒を煽り、娘にも進めた。何時もなら拒む酒だが、今日は喉に流し込んだ。其れも一気に。余程嫌な事があったのだろうと、男は言葉を待つ。
「幾ら旦那とは云えさ、あたしが嫌がるのに、強要して良いものなの?」
「あ?」
ちびちびと酒を飲む娘に、そう云う事かと男は理解した。
今日は笑って済まされる問題では無い事と判る。然し、其れで逃げ出して来たとは、本当に先が思いやられる。我慢しろと云うのは容易いが、男に其れは云えなかった。
「夫婦何だろう。労働だと思えよ。」
「労働?」
「何の不自由も無く生活させて貰ってるから、其の代償の労働だ。」
男の言葉に娘は唇を突き出し、腑に落ちない顔をした。
「此れが、何もしないで遊び歩いてる男なら、応える義務は無い。けど、不自由無く、元帥夫人の椅子に座ってんなら、応える義務はある。」
「でもさあ…」
娘の反応に男は苛立った。だったら何故結婚した、自分で決めたのだろう。誰も無理矢理見合いをさせ結婚させた訳で無く、娘自身が申し出に応え、結婚した。今更何時もの我が儘を云われても、男は困る。
「良いか?家とは真逆なの知って結婚したのは御前だろう?反対されて勝手にして、帰って来いと俺が云うと思うか?」
柔らかだが本質を突く男に娘は思い出す。
――軍人の妻が何んな道を辿るか、ワタクシを見て御存じない訳無いでしょう――
今更思い出し、自嘲の溜息を吐く。全く其の通りだ。此れが唯の詰まらない人間だったら、娘はこうはなら無かっただろう。相手が人の上に立つ人間だから、娘は思い悩むのだ。
「御前は唯の将校夫人じゃないんだ、元帥夫人何だ。ふわふわと何時迄も、可愛い娘さんしてる訳にはいかないんだよ。俺の云う事、間違ってるか?」
娘は首を振り、酒を飲んだ。男は正しい。自分で選び、文句を云う、間違っているのは自分何だと、娘は酒に映る自分の顔を見詰めた。
娘が思い詰めているのは、何も夫からの強要だけでは無い。数日前に大佐夫人から云われた言葉も、又深く娘を抉った。
「御里が知れる…か…」
娘の呟きに男は手を止めた。
「今、何つった…」
無性に其の言葉に腹が立った。
確かに、確かに男は娘を散々甘やかして育てて来た。然し赤の他人にそんな事を云われる筋合いは無い。其れを云われぬ為に、男は娘に、中尉の娘として、いや其れ以上の教養は与えて来た。積もりだったのだが。
矢張り、力不足だったのかと男は深く息を吐き出し、娘の頭を優しく撫でた。娘は其れに昔を重ね、目を熱くした。
「御前の部屋は未だあるから。」
「御父様。」
「今日だけ、な。」
今日だけ、在の頃の侭で良いと男は笑った。
娘は何時しか、“パパ”と呼ばなく為った。其れが男には、寂しく感じる。愛した娘が遠い何処かに行った様な気がして為らない。其れが道なのだからと、酒で流した。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、月が沈み掛ける迄二人は他愛無い下らない話に耽り、酒を煽った。そうして何時しか、肩を寄り添い、眠りに就いた。
白々と夜が明け始めた頃、外門を叩く者が居た。靄掛かった空気は白く、嫌いでは無い。朝の匂いを肺一杯に吸い込み、声を出す。
「早朝から失礼。加納ですが、兄の代わりに参りました。」
返事は無いが、門を押すと簡単に開き、そっと片足を入れた。
「入りますよ。宜しいですね?…入りましたよ。」
朝靄に消える声。静か過ぎて怖い。玄関の扉を静かに叩き、待つが、返事も何も無い。ベルを押しても、中から其の音が妙に大きく聞こえるだけだった。不在かと考えたが、門が開いていたので可能性は低い。そっとノブを触ると、かちゃんと小さな金属音を立て、扉が閉まった。
「………え?」
鍵が開いている。鍵処か扉さえ開いていた。まさか死んで居る何て話は無いだろうと、又金属音を立て、開いた。
「あの…加納ですが。井上大佐、琥珀さんはいらっしゃりますか。」
静かな家の中に響く声。人の気配は全く無いが、空気が悪い。強烈な酒と煙草の臭い。
「はあ、成程。」
酔い潰れ、声やベルさえも聞こえて居ないと云う事。寝ている間に連れて帰れそうだと、彼は草履を脱ぎ、臭いが知らす部屋に向かった。案の定、二人は潰れ、畳の上に空の酒瓶が幾本も転がっている。其れを踏まない様に、畳に突っ伏し、目に涙の痕を残す娘に近付いた。
良く寝て居る。其れを確認し、彼は男を見た。壁に背を預け、項垂れた体勢で寝息を立てている。起きた時、さぞかし首が痛いだろうと、彼は笑う。
「風邪引きますよ。」
云って彼は、ずり下がる羽織りを掛け直した。
起きない。
男が酒に酔う事は無い。酔わないのだが、歳の所為か身体が先に睡魔に襲われる。そうして何時も寝るのだ。今日も其の形だった。
彼は座り、下から見上げる様にまじまじと男の顔を覗き込んだ。髪で顔半分が隠れ、良く見え無いが、良かった。意外と長い睫毛に彼は驚き、もっと考えたら良いのにと下らない節介を焼いた。其れでも、昔の男にしてみれば、良くは為って居る。痩けた頬は膨らみ、汚さの象徴だった在の汚らしい髭は無い。
彼は、昔の男を知っていた。娘と同じ位の歳だっただろうか。彼は男を、一度見た事があった。其れ以降見た事は無く、見た時は今の見た目に変わっていた。
触れたい。彼はそう思った。然し触れられる訳は無く、鼻で笑った。可笑しな事だ。
彼は、男が好きだった。
けれど、軍人として生き始めた彼にとって、此れ程煩い邪魔な気持ちは無い。風化させ、忘れていた筈の気持ちは、皮肉にも、親族と云う形で繋がった。
寝息を立てる男。其の姿に彼は、いや“彼女”は我慢出来なく為り、そっと頬に、本当に触れるか否の曖昧な感覚で指を伸ばした。男の冷たい体温に、懐かしい好いた男の体温に、指から火が点き、一気に彼女の頬を赤くした。
高過ぎる彼女の体温、低過ぎる男が気付かない訳は無かった。男は低く唸り、無意識に彼女の腕を引いた。何時もの、娼婦にしている様な感覚で。
「一寸…ッ」
男の力強さに驚き、容易く腕を引かれ、彼女は片腕を壁に突いた。
「嗚呼……ッ?」
深く息が漏れた。寝惚けた男の唇が彼女の首筋を這った。ぞくぞくと快感が掛け巡り、息が漏れた。
首筋に這う唇、思いの他強い腰を引く腕、胸を弄る感覚、其れに彼女は我慢出来ず、壁に突いていた腕を離し、男の両肩に手を乗せた。
弄られる内に、胸の晒し布が開け、女特有の膨らみを現し始めた。
逃げたいのに逃げれない。男の力もそうだが、彼女自身の羞恥と快楽で逃げれない。唇が這う度に腕の回っている腰がぞくぞくと震える。
「井上…大…佐…」
頼り無い女の声に彼女は赤面した。長い髪が揺らぐ度、彼女の身体も揺れた。
此の侭…
そう思った時、後ろで小さく声が聞こえ、心臓が縮んだ。彼女は慌てて男から身を剥がし、荒ぐ息を整えた。容易く離れ、男は未だ寝息を立て、反動で床に倒れた。彼女は晒し布をきつく締め直し、乱れた衿を正した。
「琥珀さん…」
彼女…彼の声に娘はぴくりと眉を動かし、薄く瞼を上げた。
「…………加納…さん?」
「家に、帰りましょう。兄上が心配して御出でです。」
娘はむっくりと起き上がり、辺りを見渡す。見慣れた懐かしい部屋に、何故居るのだろうと首を傾げた。
床に伸びる男を見て、娘は漸く自分が来た事を思い出し、時計を見た。
時刻は、六時半を過ぎている。
六時半。
娘の血相が変わり、彼を押し退け男の身体を揺すった。
「ダディ、ダディッ、ヘイ、ハニーッ、朝だよッ」
「オーケー…ハニー…、愛してんぜ…、続けて…」
「続き…?意味判らないよッ」
娘の腰に腕を回す男に、彼は又赤面した。
「続きでも始まりでも良いから、七時前だよッ」
高い喚き声に、男は細い目を見開き飛び起きた。
「七時ッ?」
拍子で頭同士ぶつかり、痛さに目は嫌という程覚めた。そんな二人を冷めた目で見詰める彼に、男は気付き眉間に皺寄せ、涙目で首を捻った。
「あー…何方様?」
「其れ、馨さんに聞かれたら、沈められるよ…」
笑う男に、彼は下唇を噛んだ。
自分は覚えて居たのに、男は全く覚えて居ない。親族なのに、顔さえ覚えられて居ない。惨めな気がした。
「加納雅です。兄から琥珀さんを迎えに行く様云われ。外門と玄関が開いておりましたので、勝手に上がらせて頂きました。呼び鈴はきちんと鳴らしましたよ。」
云って彼は微笑んだ。綺麗に流れる目に、嫌な感覚が男を震え上がらせた。
自分は誰かに淫猥な事をした気がする。
寝惚けていたとは云え、男に其の感覚はあった。感覚、と云うよりは、起きた時女が居れば男がする其の癖を、思い出しただけだった。
「まさか…」
呟いた自分の声に、彼の身体が強請ったのが判った。男は視線を逸らし、腰を上げた。其れを追う彼の視線に、そうなのだと知る。
「俺は何時からホモに為ったんだ…」
「え…?」
「ダディ。」
「…何だよ…、ダディは今、ホモ化した自分にショックを受けてんだよ…」
娘の高い声は、寝惚けて居た時に聞いた声とは違っていた。矢張り、彼なのだと、男は溜息を吐いた。
「ダディ、其れ、ヘンリーに云わない方が良いよ…?」
犬の様な目を向ける娘に、男は唸った。
「絶対云うなよ…」
「掘られちゃうね…」
聞こえる男の溜息。深く息を吸い、彼を見据えた。
心臓に悪い男の目に、背中が冷たく為る。
「あの…」
「悪い。俺、ホモじゃねぇから。安心しろ…」
「え?」
「頼む、安心させて呉れ…」
男は其れだけ云うと、姿を消した。取り残された彼は、二人が家を出る迄の間、石像の様に正座していた。
彼が“彼女”だと知ったのは、数時間後だった。同性愛者の軍医に、性の対象は簡単に変わるのかと相談した所、「加納雅は女性ですよ」とあっさり吐き捨てられた。




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