偶然、本当に偶然だった。
元帥が変わった陸軍に、馨は余り執着を見せず、ちょっかいを掛けに行く事をしなくなった。以降、陸に上がっても暇を潰す宛の無い馨は、一人喫茶店に居た。特別何かをする訳でも無いが、時間を潰していた。
今日は雅も居る。二人無言で、フルーツポンチを、何とも不味そうに口に運んでいた。馨は入口に背を向け座り、雅は入口が開く度視線をやった。会話も無いのだから、其れ位しかする事が無い。
だから、偶然。
何時もの様に拓也が来たのは。
「お姉さん、何時ものねぇ。」
入口で云い、帽子を取り、長い髪を揺らした。
「あ…」
雅の間抜けな声に馨は首を捻った。がたりと椅子から立ち、馨は声を出した。
「井上大佐。」
其の言葉に拓也は視線を向けた。
「何だ。加納さんか。」
そうして雅と目が合うと慌てて馨に視線を戻した。こつこつと高いブーツの音が近付く度、雅の心臓も高鳴った。
「最近ちいっとも来てくれないんだからぁ。」
何故か娼婦の様な口調で拓也は云い、そうして何故か横の席に座った。
「済みませんねぇ。行けなくて。」
「あたし寂しいわぁ。」
何が寂しいのか判らないが、云う。馨は笑い、旨そうに桃を噛み締めた。
「あ、其れ旨そう。」
果物が好きな拓也にとって、二人が食べているフルーツポンチは、魅力的だった。
「お姉さんッ」
慌てて腰を上げ叫んだが、振り向いた女給の持つ盆には、何時もの餡蜜が乗っていた。
「何です?せっかちねぇ、井上さん。餡蜜は逃げやしませんよ。」
「あ…いや…、何でも無い…」
テーブルに置かれた餡蜜に、拓也は虚ろな視線を向け、大人しく着席、其の姿に馨は震え笑った。今更さら変えて等云えず、拓也は無気力にスプーンを器に挿した。
「井上大佐…ふふ…」
「云うな…、惨めだ…」
「此れは傑作だ…ッ」
不味そうに口に運ぶ姿に、馨は等々声を出し、腹を抱え笑い出した。
「笑うなッ」
「失敬…、いやでも…」
二人の遣り取りに雅も笑いを堪える。
大の大人がフルーツポンチや餡蜜ごときに表情を変えるのが、可笑しくて仕様が無い。
「時に、今日は御一人ですか?」
馨にとって拓也は、龍太郎と対に為って居るのが当たり前で、一人で居る事が奇妙に映る。
「俺だって、一人で居る時もありますよぅだ。」
餡蜜に何の恨みがあるのか、拓也はスプーンを何度も挿した。御蔭で寒天はぐちゃぐちゃ。餡こと混ざり、不味そうだ。
「此れは失敬。」
其れでも笑いは治まらない。まるで一人で居る事が不満に見える。
「と仰る割には、井上大佐?」
雅の視線と声に、二人は入口を見た。
狼が一匹。
龍太郎が三人を見ていた。瞬間拓也は視線を逸らし、無意味な隠れをした。がつがつと近付く靴音。
「拓也ぁ…ッ」
狼の吠えに、拓也は縮んだ。首根っこを捕まれ、藻掻く。其の姿に馨と雅は腹を抱えた。
「此の馬鹿ッ、要らん心配させてッ」
「手紙書いたろ?」
「嗚呼ッ、手紙とは此れの事かッ」
喚き立てる龍太郎は、一枚の紙を拓也の前に差し出した。其れにはこう書いてある。
探さないで呉れ、と。
笑う馨達に目も呉れず龍太郎は其れをテーブルに叩き突けた。
「五十嵐が混乱して、小野田が如何か為って、時一君は時一君で“ホモの巡業”等と訳の判らん事を云うしで、何なんだッ」
「御前こそ何だよ、支離滅裂じゃねぇかよ。」
馨の笑い声に、龍太郎は舌打ちをした。
「笑うな白女狐ッ」
「そうだ、能面ッ」
「嗚呼はいはい。失礼を。」
目に止まるフルーツポンチ。龍太郎は椅子に座ると、其れを頼んだ。龍太郎も又、果物が大好きなのだ。
「御前ッ」
「何だ。」
何時もの餡蜜は如何した、と恨めしそうに云う拓也だが、龍太郎は口角を上げ鼻で笑っただけ、何も云わなかった。其れが何だか無性に腹立ち、拓也は叫んだ。
「お姉さん、俺にも頂戴ッ」
負け犬の遠吠え。此れ程今の拓也に似合う言葉は無かった。
涙を堪え俯く拓也に目も呉れず、龍太郎は馨を見、笑う。
「最近、来て頂け無くて寂しいですよ。」
其の言葉に馨は眉を上げ、頬杖を突いた。
「そんなに皆さんワタクシに会いたいのですか?全く全く。雅で充分でしょう。雅、次からアナタが行き為さい。ワタクシは忙しい。」
「はい、元帥。」
暇な馨は林檎を一切れスプーンに乗せ、龍太郎の口に運んだ。
雅は息を吸った。其の光景が、洗礼に見えたのだ。
気に食わない拓也は顎を動かす龍太郎を睨んだ。
「加納さん、俺にも恵んで下さい。」
スプーンを振り、馨は器を見た。
「腕が届きません。雅。」
「はい、元帥。」
たっぷりと果物の残る器を顎で差し、一切れ遣る様示唆した。果物がそう好きでは無い雅は、一切れスプーンに乗せ、腕を伸ばした。
「雅ちゃん、やっさしぃ。」
云って拓也は口を開けた。
どくりと心臓が鳴り、手が震える。此の口が、覗く舌が、首筋に這い……感覚を思い出す。
つぅ…と汁がスプーンから垂れ、拓也の唇を伝った。
何て、厭らしい舌の動きだろう。まるで、女の汁を舐める様な。ぬらぬらと光り、見詰めていたのが判ったのか、拓也はニヤリと笑った。
我慢出来ず、雅の手からスプーンが落ちた。
「何をしているのです、雅。」
「失礼を…」
「拾い為さい。」
云われる侭に床に屈み、スプーンを拾った。揺れる足。見上げると、頬杖を突く拓也の目が楽しそうに笑っていた。ニヤニヤと、本当に楽しそうに。
雅は無言で震える感覚を楽しんだ。
見下される其の感覚を。
「汚れ、ませんでしたか…?」
動く肉厚な唇。
「嗚呼。汚れたら其の真っ白な軍服で拭いて遣る所だった。良かったな、雅ちゃん。」
頭上に落ちる掠れた支配的な声。全て見透かされている様で、慌てて身体を起こした。がつんとテーブルに強く頭を打ち付け、派手な音が鳴った。
「いっ…つ…」
頭を抱える頭に馨の冷めた声が降る。
「何をして居るのです…、全く全く…」
「不様な姿を…」
「全く全く…」
息を吐き、雅は座った。
「御待たせしましたぁ。」
女給の明るい声が、嫌に耳に障った。
「待たせ過ぎぃ。餡蜜は直ぐ持って来た癖にぃ。」
テーブルに二つのフルーツポンチを置き、餡蜜の皿を下げる店員は目をしばつかせた。
「井上さん、未だ食べるの?」
「悪いかよ。」
「いえ?貢献して頂いて、感謝感謝。」
「だろう?」
「やがて布袋様だ。」
龍太郎は鼻で笑い、拓也を見た。
「だったら龍太が先だろ。」
「俺は為らん。」
「其れは如何かな。」
なあ、と同意を求める。当然女給は意味が判らず、首を傾げた。
「俺は食った分、消費するんだよ。なあ?」
女給の腰に伸びる拓也の手を、雅は睨んだ。意味を理解した馨は笑う。
「悪かった…な」
「仕事上がったら俺と遊ぼうよ。布袋様阻止の為に。」
理解した女給笑い乍ら其の手を払った。
「嫌ぁ。」
「此の間は遊んで呉れたのに。」
「汚い男だな…」
「全く全く…」
「此の間、見事騙されたから嫌ぁ。」
「酒だけ飲まして帰すかよ。男は何で女に金を使うか。其の後が待ってるからだよぅ。」
「さぁい低ぇ。」
「結構でぇす。…気持良かったろ?結構。俺も気持良かったもん。」
「断トツ一位よ。」
あはあは笑う二人に三人は笑いも出ず、昼間の話で無い内容に引いた。其れで無くとも龍太郎は、猥談の類が嫌いだ。
「娼婦だけに留めろ、馬鹿。」
「いや、此奴街娼。夜、あの地帯行ってみ、立ってるから。」
「内緒よ…?」
「誰にだよ。皆知ってんじゃん。」
「んー…」
女給の底無しの頭の悪さは充分判り、馨に睨まれた女給は逃げる様に席を離れた。
雅は、何とも云えぬ色を目に宿し、身体を空間に置き去りにした。
こう云う男なのだ。
素人には決して手は出さない。消した筈の雌が、悲鳴を上げていた。




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