赤い口


蝶々の羽の様に、袂が揺らぐ。黒地に青緑の色彩は、宛ら烏揚羽。金の帯は垂れ、金粉を思わせ、又美しい。時恵は其れを後ろで見ていた。
「姉上、奇麗な花が咲いておりますよ。」
其の蝶々は、花の甘い芳香に誘われ、甘く囁く。髪にも花を咲かせていると云うのに、何と欲張りで貪欲、贅沢な蝶々だろう。赤い口が動く度、時恵ははにかんだ。
「此れは、何の花かすら。」
「さあ。何かしらん。」
「でも奇麗ね。」
時恵の言葉に蝶々は笑い、無断で手折った。
「こら、時一。いけません。」
「こんなに甘い匂いをさせる、彼女がいけない。」
手に持った枝を振る度、芳香が線を描いた。
其れにしても、何と見事な花だろう。肉厚の花弁と芳香は、時一で無くとも手折りたい衝動に駆られる。
高い塀に囲まれた屋敷。正体不明の花は、外門の両脇に植えられ、其の芳香で来訪者を歓迎していた。屋敷自体は高い塀と厚く閉ざされた門で見えないが、家主のセンスが見受けられる。何んな素敵な方だろうと時恵は表札を見たが、まあ驚いた。
加納。
まさか、在の加納ではあるまいと、鼻で笑った。若し仮にそうだとしたら、無断で手折った罪は重い。時恵は慌てて、其の枝を判らない様に戻す様時一に云ったが、あろう事か、花を頭に乗せた。
「如何ですか?」
「いけません、早く戻し為さい。」
「良いじゃないですか、一枝位。」
此れが時恵のなら、何も文句は云わず、あら素敵、と云う処だが、無断で人様から手折った。其れも、加納と云う、同姓。時一が笑えば笑う程、時恵の不安は肥大する。
如何か、在の加納さんでない様に。
必死に念じた。然し、時恵は見事に裏切られた。開いた外門から、雅が現れたのだ。二人の姿に一瞬固まり、何故か門を締めた。
「今の、加納さんでしたね。」
「…ええ…、そうね…」
飄々と、問題無いと云う顔で門を見る時一の腕を時恵は引いた。引いて、門が見えない場所迄走った。もう一度開く前に。
「姉上…、何故…逃げるのです…」
激しい息切れ。此れは二十歳其処いらの呼吸では無い。死に際の呼吸だ。
「何故…?」
自分も荒い呼吸を正した。時恵は仕方が無い。もう三十路過ぎて居るのだから。なのに何故時一迄も呼吸が荒いのだろう、其方に思考を持って行かれた。
「私も、是非聞きたいです。」
後ろから湧いて出た声に、二人の呼吸は停止寸前に迄陥った。
「嗚呼ッ」
「驚かさないで下さいませ…」
一気に脱力し、萎れた花の様に二人は地面に座り込んだ。
「し…失礼…」
驚いたのは雅の方だ。
門を開けたら二人が居て、もう一度確認したら全力で逃げ、息を乱していた。
「何でも…ありませんのよ…」
鼻を掠める芳香。雅が気付かない訳は無かった。
時一の頭に注がれる視線。気付き、時恵は慌てて其の枝を抜き取ろうとしたが、上手く取れない。
「あ、あ、止めて、鬘が取れて仕舞うッ」
抵抗する時一の鬘より、手折った枝の方が時恵には大事だった。
「折角一座の方から頂いたのにッ」
「又頂けば良い事でしょう…」
「何て酷い事を、髪は女の命ですよッ」
「貴方、男でしょうッ」
「今は女ですわッ」
喚き合う二人に、雅は息を吐き、そっと髪に触れた。黄色味掛かった花弁が、緑の黒髪に良く栄える。
雅は無性に、手折りたく為った。
時一の鬘を。
手折って、毟って、自分の頭に生やしたかった。
女に為りたい。そう、思った。
男の時一が為れるのだから、自分も為れる気がした。髪から甘い香りをさせ、艶やかな美しい袂を靡かす…そんな幻想をした。出来る訳無いと思うからこそ、雅は甘い夢を見た。
此の芳香の様に、甘い夢を見た。
時一の着物に反し、雅の着物は、質素な艶やかさの欠片も無い、無地の鶯谷色だった。
笑う赤い口が、妙に綺麗で、誘われている様、感じた。




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