赤い口
何を思ったか、母の紅を、自分の唇に引いた。薄く色付く其の色に、雅は息を吐いた。
最後に化粧をしたのは何時だろう。若しかしたら、自分は生まれて此の方化粧をした事が無いのでは無かろうかと思う程、記憶が薄い。鏡に映る姿に、雅は溜息を漏らした。其の時、襖が開き、母が顔を出した。ぎくりと雅は、慌てて紅を拭った。其の姿に、母は居た堪れない気持ちに為った。
本当は、紅を引いて、袂若しくはスカートを揺らしたいのではないか。
そう思った。
母は、雅が男に為る事に良い気は持って居ない。夫とは違い、娘が欲しかった。其れなのに、其の娘は軍服を纏い、男として生きる事を選んだ。女等要らんと言い放った夫の言葉で。今頃、白無垢を着て、嫁いで居たに違いないのに。
「雅…」
切ない母の声に、雅は、唇を噛み締めた。
「今のは、見なかった事にして下さい…」
自分で男として生きると決めて於き乍ら、何を未練がましく紅を引いているのか…そんな自分に、涙が出る。
「兄上には、云わないで…」
馨に知られたら、有無云わず女に戻される。女に戻れと云われた言葉を振り払って迄、男として生きる覚悟を決めた。なのにこの白い軍服に、赤は御似合い過ぎる。
「ねぇ、雅。」
母の言葉を遮る様に、雅は首を振った。
「聞きたくありません…」
「違うの。あのね。」
云って母は、置かれた紅を取り、たっぷりと紅筆に乗せた。そうして、雅の顎を持ち、薄く引いていった。左右に動く紅筆の感触に、唇が震える。
「御覧為さい。」
云われ見た鏡。何て、鮮やかで、美しい唇になった事だろう。紅の引き方さえ忘れた雅には、文句の付け様が無かった。
「母上、あの…」
「一寸待ってね。」
優しく笑う母は、箪笥から艶やかな羽織を取り出し、軍服の上から掛けた。
「ほら、奇麗でしょう。」
自分と同じ色を塗った口が、震える。
「如何して、男に為って仕舞ったの…」
頬を伝う涙に、雅は何も云えなく為った。
「如何して…」
俯き泣く母。肩に置かれた手の震えが、嫌という程伝わる。雅は強く目を瞑り、邪念を振り払う様に、母の手と羽織を捨てた。
「私は、私は男です。男として生きる人間に、こんな…」
何故こんな事をするのか、云い掛けた言葉は、涙で消された。
口に広がる紅の味に、吐き気がする。なのに、邪念は消えては呉れない。口に紅の味が広がれば広がる程、気持ちは強くなる。
「私は、男なんです…なのに、なのに…」
雅の中の雌が、叫びを上げた。
「女に戻ろうとする自分が居るんです、男でも、女でも無い私は、一体如何したら良いんだッ」
もう、終わりだ。彼に会った時から、触れた時から、男の自分は消え掛けていた。其れを必死に軍服で繋ぎ止めて居たのに、周りは其れを哂う様に動いく。
女装をする軍医、彼の存在、そして此の救い様の無い行動。
喚き、頭を抱える雅に、母はそっと抱き締め、云った。
「戻り為さい、女に。戻りたいのでしょう?」
「違う…、戻りたくない…、軍人として…男として生きるのが、私の…父上の…倖せなんだ、…其の筈なんだッ、間違っちゃ居ないッ、私は何一つ間違えて無いッ、なのに何でだ、何故なんだッ、…私は如何かしたのか?兄上に殴られ過ぎておかしく為ったのか?まさかそんな、其れなら昔からおかしい筈だッ、違う、何を云ってるんだ私はッ、何を考えてるのかも判らないッ」
彼には、女として見て貰いたい。そうして、強く抱いて貰いたい。男の自分に其れは無理で、けれど女に戻る術を知らない。ひっそりと紅を引く事しか、雅には出来無い。長い髪も、しなやかな身体も、自分には無い。命を生す事も出来ない、男としても女としても、生きていけない、此の身体。
「今更如何して、女に戻れると云うんだよ…」
頭を畳に叩き付け、軍服を乱す雅の姿に、母は呆然と見詰めた。
「嫌だ、こんな自分が嫌だ、誰か、誰か……」
誰が私を殺して呉れ―――。
畳がしっかりと、雅の透明な苦痛を受け止めた。
〔
*prev|4/4|
next#〕
T-ss