処女遊戯


一体何時振りだろう。元帥が変わり、若しかすると初めてかもしれない。久し振りに元帥室に続く此の廊下に靴音を響かせた。
ごつりごつりごつり。
白い軍服、其れが二つ。
「雅は、此処に来るのは初めてでしたね。」
「はい。」
「陸軍は迷路の様に為って居ますから御気を付け為さい。」
尤も、雅が一人で来る事は無いだろうが。
長い廊下を歩き、漸く見えたドアー。ノックをすると心地良い音が響いた。
「はい。」
中から聞こえる少し高い声に馨は笑った。
「陸軍さん、ちょっかいを掛けに来ましたよ。」
其の声に、ドアーが静かに開いた。
「暇人。」
龍太郎は笑い、ドアーを閉めた。
「御一人ですか?」
馨は聞いた。
何時もなら居る人物が居ない。和臣の時もそうだったが、元帥の横には必ず“大佐”という人間が居た。其れが居ない。雅は、少しばかり安堵した。
あの時から日が経っていない。何んな顔をして逢えば良いのやら不安だったが、居ないのなら其の心配も無かった。
「井上ですか?居ますよ。」
紫煙を上げ、左手にあるドアーを見た。都合良くドアーが開き、書類に視線を落とした侭、矢張り同じ様に紫煙を上げる拓也が出て来た。
「なあ、龍太。此の中国の…」
云って、気配に言葉を止め、ふっと顔を上げた。
「おい、聞いてねぇぞ、海軍との会合なんて。」
阿呆五十嵐が又連絡をしなかったのか、何の会合かは知らないが、あるのだったら紅茶の用意位した。
陸軍に紅茶は置いて居ない。
「いえ、何時もの“アレ”です。」
「嗚呼。」
御宅等も暇ね、と龍太郎に書類を向けた。
「おい元帥様よ。」
「中国が如何かしたか?」
忙しそうな二人に、日を改めた良さそうだと、馨は頷いた。何、海軍も案外暇なのだ。
「御邪魔の様なので、帰りますね。」
其れに拓也は、一分で終わるから構わないと云った。
「相手、してやってよ。」
自分は部屋に篭り切り、五十嵐は話し相手に為らず、長年部下の小野田は陸軍大臣で此処には居ない。此の広い部屋、狼の剥製があるだけで、龍太郎は書類を待つしか無い。否が応でも孤独に為る、虚無感を覚える、だから和臣は何時も大佐を横に付けて居た。此の独房に近い場所で、人で居る為に。
「少し、待って頂けますか?」
龍太郎の言葉に馨は頷き、ソファに座った。其れに雅も。そうして拓也は云った。
「一人かと思ってた。」
決して意地悪で云ったのでは無く、馨の陰に隠れ見えなかった。
「居ますよ、失礼な。」
「此れは此れを失礼を。」
笑い、書類片手に声を出した。
「此の物資如何為ってんだ?」
指された所を見、目を細めた。
「此の物資なら、一ヶ月前に送った筈だぞ。」
「一ヶ月前?」
「嗚呼。印を押して、其れから直ぐだ。」
金庫を開き、其の中から其の控えを取り出し、拓也に見せた。其処にはきちんと配給物資内容と経路、元帥印が押され、日付が一ヶ月前に為っている。其れなのに、届いていないと書類が送られてきた。
「あ?如何為ってんだ?」
「止められているのではないですか?」
馨の声に、二人は溜息を吐いた。
「此れで何度目だよ…」
「今月に入って二度目だ。」
「一回行った方が良いんじゃねぇの?」
大方上層部が塞き止めて自分達の物にしているのだろう。唯でさえ物資は少ないのに、こうもされると、本気で配給停止にしたく為る。龍太郎自ら兵に支給するしかないのか。和臣の時にはそんな事が起きなかった、なので対策を考えて居なかった。一度上層部での塞き止めが発覚した時和臣は、問答無用で支給を止めた。其れからそんな事は無くなったが、龍太郎に代わり、詰まりは舐められて居るのだ。此れは少し、鬼に為る可きか。
「全く本郷さんは、仏様なのですから。」
馨の声に、龍太郎自身もそう思った。
「神様仏様本郷様、とね。」
国民からそう呼ばれる龍太郎に、馨は皮肉に笑った。
龍太郎が元帥に為り、少し変わった。国民への配給量が大幅に増えたのだ。軍に大量配給していた和臣とは違い、軍に送る配給を減らし、国民に回した。其れが国民には、仏様に思える。そうして、修羅様鬼様木島様、から、神様仏様本郷様、に変わった。
無理矢理に万歳させて居た和臣、龍太郎は自然と万歳させる。違いは大きい。
「だって、そうだろう。俺達は、此の国の前に、此の国に居る国民を守る義務があるんだ。空腹で逃げ回れと云うのか。そんな理不尽な話、あるか。」
木島宗一郎が云ったのは、此の事。
御前は人の上に立つ人間だ、周りを考え、決して自分だけが偉い人間だと思わない其の心。
木島は其れを見抜いて居た。
「国民の居ない国を守って、如何為るんだ。」
小さく吐き捨て、龍太郎は書類を破った。次に白紙にペンを走らせ、だん、と印鑑を押した。
「新しい上官を送る、空腹を身を以て味わえ。以上。」
龍太郎の言葉と渡された書類に拓也は一礼した。
「御意、本郷元帥。」
長い髪を揺らし、拓也は部屋に篭った。其れを雅は、切なそうな目で見ていた。其れに気付いた龍太郎は優しく微笑んだ。
「行っても、良いですよ。尤も、拓也が良いと云えば、ですが。」
龍太郎の言葉に一気に赤面する雅。馨は息を吐いた。
「貴方の目的は、井上大佐でしたか。」
「ち、違います…」
弁解するが、誰も信じて呉れなかった。
「全く全く。」
「だから違いますって…」
二人の遣り取りに龍太郎は微笑み、部屋のドアーをノックした。
「何だよ。俺忙しいんだよ。何処ぞの元帥様から御達しがあったからな。」
薄く笑う龍太郎は雅に視線を遣り、無言で伝えた。
「嗚呼、成程。」
拓也は頷き、雅に近付いた。
「内が元帥様がね、御宅の元帥様と二人きりでイイコトしたいらしいから、其の間、俺の部屋に来いって。」
其の言葉に馨は蒼白した。龍太郎は龍太郎で頭を掻いた。何も其処迄云えとは云って居ない。遠回しに誘えと訴えただけ。
「元帥殿の命令は、絶対ですので。では、ごゆっくり…」
笑い、拓也は雅の腕を引きドアーを閉めた。伝わる拓也の体温に、雅は頬を染めた。
「さて。」
「はい。」
龍太郎はドアーから視線流し、窓の外を見た。
「天気が良いな、乗馬でもしましょうか。」
「ワタクシ、乗れません。」
「教えます。良いですよ、馬は。」
「軍艦も宜しいですよ。」
「鉄の塊は如何もね。」
青い空に白い雲、本当に戦争をして居るのか、雲は何も答えず、ゆったりと姿を変えた。




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