男≡女


逢瀬、と云っても計画していた訳では無いので、行く宛が無い。二人で無言の侭歩いていた。其れも、雅の方が早い。時一は其れに付いて行くのに必死で、話題を出す余裕が無い。
「あの…疲れました…。と云うか、此処何処ですか…」
足を止め、見知らぬ土地に時一は辺りを見渡した。
「海軍基地の近くです。」
其れだけ雅は云い、又足を進めた。
冗談では無い。此れ以上歩いて堪るかと、時一は雅の手首を掴んだ。いい加減疲れているのだ。
「どっかに入りましょうよ。」
「何処に。」
冷たい言葉。
土地感の無い時一に、何故聞くのか。雅に疲れは無い。依って休む理由が無い。其れでも、本当に疲労で顔を歪ませる時一は、可哀相である。
雅は息を吐き、手を振り解いた。
「判りました。直ぐ其処に喫茶店があるので、其処に入りましょう。」
「ええ、御願いします…」
もう見えていたので、時一は最後の力を振り絞り、喫茶店に向かった。
「紅茶と、菅原さんは。」
「珈琲を。」
陸軍基地の近くにある喫茶店とは違く、此処は矢張り海軍が多い。軍服を着て居ない雅に、数人は気付いた様だが、声を掛ける者は居ない。其れを礼儀と取るか…。
時一の姿は誰も気には止めず、雅が女を連れて歩くのは、誰もが知っていた。
会話も無く、二人で注文の品を待っていた。
「加納さん。」
「何です?」
「何か話しませんか?」
雅は片眉上げ、
「良いですよ。」
そう笑った雅の前に二つのカップが静かに置かれた。
湯気立つ紅茶と珈琲の香りが、二人の顔の間で混ざり合う。
「菅原さん。」
「はい。」
「煙草、持ってます?」
一瞬時一は驚いたが、笑顔で煙草をテーブルに置いた。洒落た花の煙草入れ。
「吸わないのかと思っていました。」
「普段はね。元帥様は、煙草が嫌いだから。」
云って雅は静かに煙を吐いた。
「珍しい方ですね。」
「其の御蔭で、海軍は大変。飲みたい時に限って傍に居る、皆愚痴零してる。」
「拷問だ。」
「全く全く。」
二人は笑った。時一でなければ、笑えなかった。海軍内で馨を笑おうものなら、首が飛ぶ。
同時に一口飲み、息を吐いた。
「今って、本当に戦争中何ですかねぇ。」
時一の言葉に雅は首を傾げた。
「そうだよ。来週から又、私は遠征だ。」
「俺もだよ。」
遠征に行くが、戦争を感じるのは其の時だけで、此処でこうして茶を飲んで居ると、そんな気は持てなかった。
「デートしてると特にそう思う。」
薄く笑う時一。
雅もそうだった。好いた者と居る時、戦争等して居ないと錯覚して仕舞う。熱に浮かされた気持で軍服を着、現実を二人は知る。
「早く恋人見付け様。好い加減一人で居るの飽きて来た。」
「おや、御一人。」
「絶賛御一人。そう云う加納さんは?」
雅の艶加減。恋をしているのは判っている。相手の性別は何方だろう。
澄んだ時一の其の目に、雅は顔を逸らした。
「加納さんの相手は…女性?」
「基本は。」
「基本。」
「女の方が好き、が最近…」
「最近。」
「…此の話、止めないか…?」
「嫌。」
「男と寝てる…、初めて、女以外を好きに為った…。いや、二度目、なんだけど…何と云うか、同じ男に二回惚れてる…」
時一の目が輝く。色恋の話は、大好きだ。そんな好きな話に、つい女に為る。
「海軍の方?」
「違う…」
「一般の方、素敵ッ」
きゃあきゃあと高い声を出し艶めき立つ時一。雅は苦笑し、然し不思議と楽しい気持がする。誰かとこんな話をするのは、実際雅は初めてだった。
「ねぇねぇ、何んな方?」
目を輝かせる時一は、乙女其のもので、男という事も、軍医だという事も忘れる。
「秘密。」
照れ、そっぽを向く雅の手を握り、甘えた。
「ねぇ教えて頂戴よ。二回も惚れるって大概よ?」
かっと耳迄赤らめる雅に時一の心は一層高鳴り、力が入る。そんな純粋な恋等、久方していない時一は、自分の事の様に楽しい。
「本当に好きなのね、其の人の事。」
同じ人物に二回も惚れるとは、余程執念深いか愛情深いかの。
「俺もね。」
時一は手を離し、カップを握った。
「凄く好きな人、居るよ。」
「一座の?」
時一は首を振り、昔の恋人、そう云った。
「初恋で、恋人で、俺の世界だった。一緒に居た時は、別れたら世界が終わるって思ってた、だけど実際終わったら、そんな事無かった。」
「何で、別れたんだ?」
「俺が、大人に為ったから。一人で歩ける様に為ったから。彼の事は今でも判らない、俺の事を愛してる以外は。」
「愛してるのに、別れたのか?」
「自分が居る事で、俺の足が止まるのを知ったから。御前が歩く其の道は、必ず何時か俺に繋がる、其れ迄歩け、必ず歩け、ほんで又、一緒歩こうや。彼はそう云って、俺から手を離したよ。」
カップから手が離れ、其れを雅は追った。
「だから俺は歩き続ける、何があっても。何年、何十年後か知らないけど、絶対に又、一緒に歩くって決めてる。其れ迄俺を愛してて欲しい。」
時一の突拍子も無い話に、雅は顔を逸らした。自分の事と良く似て居た。雅の場合は唯の初恋で、潜在意識にあった。本人に再会して初めて、あれが恋だったのだと知った。
「若し其の人が、違う奴を好きに為ったら如何する?」
雅の質問に、煙草を持ち掛けて居た手を止めた。
「殺す。」
「え…?」
「相手をずたずたに傷付けて、取り返す。彼奴が俺以外を好きに為る…?」
マッチの火が、大きく見えた。
「俺から殺される覚悟の上だろうね。」
吐かれた煙は白いのに、はっきりと時一の心のどす黒さを見せた。そうして、其れを楽しみにして居そうな視線を雅に向けると、一気に破顔した。
「で、貴方の御相手は?馴れ初めから聞きましょうか。」
「戻るのか…?」
「貴方の話を聞く為にあたし居るんだから、あたしの話だけしたって詰まんないじゃない。」
時一からは如何遣っても逃げられない事覚悟した雅は、ぽつぽつと口を開く。全く、こんな男に愛された相手が可哀相だ、そう思い乍ら。
「運命ね。」
聞き終えた時一はうっとりし、まるで幻想文学を読んだ時の様な気持を覚えた。
「でも、困惑する自分も居るんだ。私はずっと男として生きて来て、女の心等すっかり無いと思ってた。其れがある事に、動揺してる…。どっちで居る可きか、判らない。」
「良いんじゃない?どっちでも。」
飄々と吐き捨て、煙草を消した手を其の侭自分に向けた。
「あたしは、軍服着てる時もあたしだし、此れもあたしなの。何方か一方が失せた所で、其れはあたしじゃないし、あたしで居られない。貴方は、はっきり性を決めたいみたいだけど、両方あっても良いんじゃない?男で居て窮屈と感じるなら貴方は女だし、逆も同じよ。でも、何方に居ても貴方が貴方で居るなら、其れが貴方なのよ。男で居たい時は男で居て良いし、女で居たい時は女で、存分に其の人に愛して貰えば良いのよ。其の人だって、判ってるわよ。男の貴方でも女の貴方でも、貴方が貴方で居れば。」
「女に、戻る必要、無いのか?」
「大体、女とか男って何?外の違いでしょう?中は皆一緒よ。人間外に惚れた訳じゃないんだから問題無いわよ。そら、猿が相手です、とか云われたらあたしも考えるけど。人間でしょ?」
「当たり前だろう…」
「じゃあ問題無いじゃない。」
「其奴、最初、自分がホモに為ったって喚いたんだけど、其れでも問題無いのか…?」
「一寸待てよ。」
行き成り男の声色に戻り、時一は顰めっ面を晒した。こうも簡単に切り替え出来たら雅も悩まずに済む。
「御免、もう一回云って…?ホモに為ったって錯覚した…?」
「あ、嗚呼…、私を女だと知らなくて…」
意地の悪い笑顔が、視界一杯に広がる。
「はぁあん。」
「なんだよ…」
「井上さんか。」
出た名前に雅は紅茶を逆流させ、一気に興味失せた時一の顔を見た。
「なんだよ、井上さんかよ。詰まんねぇ。」
「詰まんないってなんだよッ」
「井上さん、ねぇ。何処が良いの?」
時一は前々から、拓也が何故にあんなに女にきゃあきゃあ云われるか判らないで居る。見た目は不気味だし、女癖は娼婦同士が喧嘩する程悪いし、何時見ても飲んだ暮れてるし、凄いサディストだし、滅多な事が無いと話さないしで、時一には拓也の何処が良いのか全く判らない。
金か、金なのだろうか。金なら無駄に持って居る。
優しい、と云ったら優しいのだろうが、時一は先ずに見た目が受け付けない。五十メートル走らせ、地面にへばり付き死に掛ける軍人等見た事無い。今でも、龍太郎より拓也を実は敵視して居た和臣が判らない。龍太郎なら文句無く敵視対象と納得出来るが、和臣は決まって何時も拓也と密かに争って居た。聞いても「彼奴が真の敵」としか云わなかった。顔は如何遣っても和臣だが、和臣が云うには「彼奴目茶苦茶顔良いぞ、俺には負けるが」。龍太郎に聞いても「彼奴に勝てる男は木島さん位じゃないか?身長以外で」。宗一に至っては「宝の持ち腐れ」と迄言い放った。宗一がそう云うなら少し見直して見様ともしたが、拓也は矢張り如何遣っても拓也だった。
理解出来無い時一に宗一が一度「井上はん、ほんまは一途なんよ、吃驚する位おっきな愛で、一途で一途過ぎて、娼婦と遊んでんのんよ」と云ったが、益々理解に苦しむだけだった。
「雅さんって、案外趣味悪いな…」
「悪趣味なのは自覚してるが、今の貴様にだけは云われたくない。鏡見て来いよ。」
「美しい俺しか写ってない。今日も美しい俺。明日も美しい。死ぬ迄美しい。来世でも美しい。」
「御前に惚れる男の方がずっと悪趣味だよ…」
「ねぇ本当にさぁ、井上さんの何が良いの?一回聞いてみたかったんだよ。」
時一の趣味は判らないが、其処迄云わなくとも、或いは本当に自分が悪趣味なのか、混乱する頭を数回叩いた。
「目、かな。」
「目?あの死んだ様な目?益々判らん。」
時一はそう云うが、初めて拓也を見た時、あの目が印象的で、心打たれた。
生気の無い黒い瞳、影を落す目はウレいを帯びていた。なのに、優しい目をする。ウレいに塗れているのに、酷く愛を感じた。
一度琥珀と話した事がある。
何故拓也の養女に為ろうと思ったのか。すると矢張り、あの目が理由だと云った。そうして、ハロルドも同じ事を思ったと教えられた。
拓也の事で印象に残るのは、先ずに背中を被い尽くすあの長い髪なのだが、目を見たらもう其れしか印象に残らない。髪が長いとか、髭が伸びているとか身体が細いとか、拓也の特徴は沢山あるのに、目を見たら強烈に頭にこびりつく。強烈な印象を残すであろう長い髪が一瞬にして霞む、其れ程拓也の目は他とは違う。極端な話、世界が凝縮して居る。
世界には愛があって、楽しい事も悲しい事も、死も当然、唯、幸福と不幸は無い。不幸が無いから幸福を感じない、物事全てが何かしらの幸福だから不幸は存在しない。
拓也の目は、そんな事実を教える。
「拓也さんを好きに為る女は、何かしら問題を抱えてる。こんな不幸に誰がしたのよ、あたし程不幸な女って居ないわ、そう思ってる奴が多い。でも。」
雅は首を回し、一息吐いた。
「拓也さんの目を見たら、自分の不幸が如何に陳腐で、如何に自分が恵まれてるのか判る。だから菅原さん。」
貴方みたく鏡見てりゃ最高に倖せな人間には一生判らない、と意地悪く、茶化す様に笑った。
其れに時一は片眉上げ、口角を引き攣らせた。
「俺だって好きで鏡見てる訳じゃないんだよ。九割趣味で見てるけど。」
「ほう。」
「鏡見てたら現実見なくて済むだろ、俺しか居ないんだから。」
「嗚呼、だから拓也さんを見たくないんだな。」
「ん?」
「あの人は、他人に現実を突き付けるから。」
だから今の葛藤がある。女である現実を突き付けられた。
惚れた事に依って、男として生きた時間を、生きる時間を否定されても、覚悟の上だと、雅は目を伏せた。




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